多摩川に現れたアザラシに「タマちゃん」と命名するのは、見も蓋も無くとも、最初の例だから良い。でもその後各地の同様の例で地元民がこの命名法を踏襲したがるのが何故なのか、解せない。
ウタちゃん、ナカちゃん、マジちゃん、コヤちゃん、トカちゃん。
メディアでだけ見る他所事と思ってたイヴェントが、突然地元に降りかかって我が事となった時、「タマちゃん」を踏襲することで流れに連なってる感を味わう、のだろうか?
私なら逆に、ここぞオリジナリティある命名に知恵を絞る機会、と意気込む。
妙案は無い。ただ、「ナカちゃん」の時、彼女が、ヒトの「経済」活動による「環境」破壊への警告を携えたメッセンジャーと思えたから、「エコエコアザラシ」でいいじゃん、と思った。
自然発生的に呼ばれるようになるとか、公募で正式に決まるとか、なんだろうけど、「コヤちゃん」は知事が名づけたらしい。
あと、むろん、渡嘉敷島に現れたらそれは「トカちゃん」と呼ぶ以外有り得ない。
昔、NHKラジオ第1「私の本棚」という朗読のコーナーで、阿川佐和子と壇ふみの共著を、著者本人2人が読んでた。
共著というか、阿川、檀、それぞれのエッセイが交互に並んでた。
私の感想は「オリジナルの言葉で書くという意識・矜持が無いのか(揃いも揃って作家の娘のくせに)?」だった。
クリシェだけで出来た文章。既存の言い回しにうまく落とし込むことが作家の仕事、と思ってるのか?
本人が朗読してたんだから、それなりに自著としてカウントしてたんだろう。黒歴史ではなく。
クリシェで言えることはクリシェで済ませればいい。でもそれは作家の仕事じゃない。作家は「クリシェで言えることは言わない」べきだ。
需要はあるんだろうな。
一般に、既存の言い回しの援用への誘惑というものが、世間にはあるのだろうか?
私は「~する今日この頃」とか恥かしくて使えない。