メモ(空耳アワー)

つべで「空耳アワー」をよく見るのだが(放送で見たことは殆ど無い)、「ホモ」「オカマ」「ゲイ」がいつも笑いの対象にされてることと、セクハラ(場合によって性犯罪)に対して寛容な表現が少なくないことが、いくら昔だからって通らないだろう、と思う。動画の説明に放送日が記されてることが少なく、どのくらい昔なのか即断できないのだが。

 

で、「空耳アワー」の面白さは、①投稿者による「空耳」自体と、②それを制作者がスキットにして映像化して見せることとにある。私自身の興味は②のほうにある。

②では、「空耳」自体が限定していないシテュエイション、コンテクストを、どう設定するか、それが「いかにも」で面白かったり、「突飛」で面白かったりする。

言葉の上の「ダジャレ」を「絵」にして見せると途端にグロい、という先例として、なんきんのマンガと、Edward Lear "A Book Of Nonsense" を指摘できる。「ダジャレ」ではないけどブリューゲルネーデルランドの諺」にまで遡ってもよいかもしれない。

 

私の好きな作品としてこれの2本中の2本目(2分12秒目~)がある。

www.youtube.com

武満徹「ドリームタイム」

最初に知った武満は何だったか?

実家にあったアナログ盤2枚組『武満徹~作曲家の個展~'84』か、あるいは松田洋子『薫の秘話』中のネーム

武満徹『エアー』」(最上品美のセリフ、むしろわけわからない音楽の代表として)

を読んだのが最初だったかも知れない。

最初に心底魅了された曲は、件の2枚組所収「ドリームタイム」で、演奏は岩城宏之NHK交響楽団

 

この1曲を好きになった経緯はどんなだったか。

響きの豊饒、ディテールの緻密な絡み合い、ときに滑稽なまでにエロティックな運動性、に夢中になったわけだが、武満のオーケストラ曲の中でこの曲が殊更そうなのか。

または、アルバムを渋々聴き進んでいた私の耳が、武満の音楽に馴染んで来たところでこの曲に差し掛かった、タイミングの問題だったのか。

 

つべにはこの演奏が上がってる:

この演奏は、スタティクさが、音を無難に並べに行ってる風に聴こえて、彫琢が足りなくてなまくらかなあ。前述の、この曲に聴き取っていた特徴「豊饒、絡み合い、エロ」は、岩城/N響なればこそだった、と思う。

ちなみに同じ岩城宏之で、のちにCDで聴いたメルボルン交響楽団とのこの曲は、物足りなかった。でも、複雑なオーケストレイションの曲は、どんな分析的な解釈・演奏でも、全てのパート、全ての出来事をマスキングすることなく聴かせる、ということが不可能だから、別演奏には必ず新発見があり、もれなく貴重だ。

 

追記(2019年01月23日)始め。

その後岩城/メルボルン響がアップされた。

追記終わり。

 

追記(2021年02月21日)始め

今つべで聴ける中で最も理想的な演奏はこれだと思う:

山田和樹/日本フィルハーモニー交響楽団、2017年05月14日。

私の聴きたいディテイルが、全部聴こえるし、くっきりと造形されてる。

響きも、すっきりと、美しい。

追記終わり

 

追記(2023年05月02日)始め

2021年07月リリースの『1982 武満徹 世界初演曲集』から、岩城/札幌交響楽団による演奏。

細部の扱いを疎かにしなさはN響とのもの以上。やや無骨かも。

追記終わり

 

NHK交響楽団は、私にとっては、この曲との特別の出会いと、山根明季子「水玉コレクションNo.06」と、いつぞやTVで聴いたデュトア指揮での完璧なドビュッシー「海」なので、印象はすこぶる良いのだが、身辺ではいったいに評判が悪い。

曰く、「及第点」、サラリーマン根性、給料以上の仕事をしようとしない、N響と東混で感動したためしがない、本当に音楽愛してんのか⁈…云々。

彼女らは2回りほど先輩なので、N響自体が時期によって良否があるのだろうか?

 

今でこそ武満は「多様な日本人作曲家のうちの1人」だけど、私が聴きだした頃は、日本の現代音楽全体を1人で代表してるような存在だった気がする。

亡くなってまだ数年だったし、なんというか、武満の名を唱えておきさえすれば現代音楽知ってる顔をしていられる的な風潮が嫌で、私自身、彼へのこだわりが薄れた時期がある。

 

あと、マジカル・パワー・マコの2nd.のライナーノートで、初期のマコにとって計り知れず大きかった存在として、武満徹に言及されてるのを見たのも、同じ頃だった。

泣くポイントは懐かしさじゃない

星の王子さま」ではみんな泣くのだ。「不思議の国のアリス」で泣けなくては!

 

 

私はジャズをまったく知らない。先日アメーバピグの音楽フロアでマイルズの 'So What' を聴かせて頂いた。このエポックメイキングな "Kind of Blue" を「ちゃんと聴いたのはこれが初めてだった」と白状するのには勇気が要る。

泣けた。「モード・ジャズ」を世に提示するマイルズのドヤ顔が目に浮かんだので。

「ドヤ顔が目に浮かんだ」ことと、だから「泣けた」こととの因果関係の説明は難しい。自分でもよく判らない。

歴史が刷新されてる現場、凄いことが起きてる、でもその提示の手際はクール。

 

私が泣くポイントは「ポエティック(目覚ましさ)」かも知れないな。私は「情」では泣けない。

 

 

実家のカセットテープには吉松隆「マーマレイド回路」もあった。

作曲は1984年。この動画の説明に「1984年5月20日(日)、NHK FM現代の音楽』で放送」とあるから、作曲されて間もない、初放送じゃないか? たぶん実家のカセットも同じ放送のエアチェック

つべには同じ曲の、「NHK FM現代の音楽 日本の電子音楽作品特集(2002年9月15日)』より」と説明のある動画が上がってる(なぜかモノラル):

1984年と2002年の間のどこかで改題されたようだ。

 

今回あるきっかけからこの曲の動画を探して十数年ぶりに聴いたら泣けた。

泣けたのは、曲との十数年ぶりの再会という私の個人的事情による「懐かしさ」のせいではない。

「懐かしい」は作品自体、音楽的内容自体への評価の言葉じゃない。逆にそれらを蔑ろにする言葉だ。

 

 

追記

いまWikipedia「朱鷺によせる哀歌」の項に

〈作曲家の紹介文献で「『朱鷺によせる哀歌』で尾高賞を受賞した」と記述されていることがあるが、事実ではなく、本人も公式サイトで否定している〉

の一文を発見し、狐に抓まれている。

私も尾高賞受賞作と思い込んでた。じゃあそのデマの出処は何なんだ?

 

追記 2020年03月19日

Wiki吉松隆」は、上記の誤った記述のある箇所として、青島広志『作曲家の発想術』(講談社現代新書、2004年)p.263 を挙げている。

いっぽう、1982年に「尾高賞30周年記念N響コンサート」でこの曲が取り上げられ、同年レコード化(1991年に CD 再発)されている。作曲の翌年というタイミング。これが誤認の元かも知れない。

どっちみち私個人の誤認の原因は判らない。