アッンブラ!

「強引に意地を押し通す」の意味の「張る」を、複合動詞の第2要素として使う例は「言い張る」以外にあるだろうか?「発音し張る」という言い方はあるだろうか?

(無ければ私が作ればいい)

 

ひとり「デイヴィド・アッテンバラ」と発音し張り、表記し張るのに疲れた。

 

アッンブラ!

 

「述べ張る」と打とうとしたら「野辺春」と出て美しかった。

 

英単語のカナ表記について書くつもりだったけど全てがめんどくさくなった。

ひとつだけ言うと。

私自身、「原音に忠実に」や「表記の法則に一貫性を」な「管理」の立場と、「言葉は融通無碍な生き物」な「レッセフェール」の立場との間で振れて来て、もともとは前者だったけど、最近は後者に振れてる。

日本語生活の「場」に放り込まれた単語の、表記が決まってゆくのに、原音をなぞるとか、綴りにつられるとか、人々の関心の積極性の度合いとか、多くの要素が働いて、場合によってどの要素が強く出るか、ケースバイケースで構わない。むしろそれが面白い。

「人々の関心の積極性の度合い」についていうと、これが低い場合は、「綴り」に引きずられる傾向になると思う。新たに触れる英単語について「音」で情報を得るには、より積極的なアクセスが求められるのではないか。

 

結局だらだら書いてしまった。

「原音に忠実なカナ表記を工夫すること」は、私の個人的な趣味としてはあるけど、「世の中こうあるべき」みたいのはさらさら無い。私は私の極私的言語空間に立て籠もるべく、結界を「張り張る」。

Syd Barrett、Donovan、そのほか

Syd Barrett "The Madcap Laughs" (1970) では、2曲目 'No Good Trying' の歌メロの出だしの動きが最高にかっこいいと思った。

ド→シ→シ♭→低いド、2つの短2度(最も狭い順次進行)に続く、短7度のいきなり幅広い跳躍進行。

シ♮で長音階を開放的に響かせ、直後にシ♭の4度圏の閉塞性でこれを打ち消すのもかっこいい。

バレットなればこそのぶっ飛んだ着想だと思った。

 

ところが。

やや遅れて、Donovan 'Sunshine Superman' (1966) を知った。

こっちのが古い。

歌メロの出だしに、上述の音程関係が既にある。

バレットはこれを、意識的にせよ無意識的にせよ、参照したのだろうか?

 

シューベルト「野ばら」の歌い出しの音形が、モーツァルト魔笛」に既出と知った時のような。

ヴェルヴェッツ「ファム・ファタール」を聴いた時、レノン「イマジン」のAメロってこれのパクリじゃん!と思った時のような。

 

アメーバピグの音楽フロアで教わった、一等好きな動画:

 

'Sunshine Superman' のAメロについては、渋谷系の、FPMだったか誰だったかがパクってた(サンプリングという意味ではなく)が、つべが咄嗟に見つからない。

ここに紹介する価値もないが。

私が渋谷系を嫌いな理由は何だろう?

習俗と結びついてることが、音楽の自律と純粋を貴ぶ私には我慢ならない、のかなあ?

なんしろ音楽は超俗と思ってる。日常生活の中にあって、ファッションとして消費される音楽は居たたまれない。

とか、いろいろ思いつくけど、いちばんの理由は、私の大事に思ってる音楽の分野と、渋谷系とが、人脈とかファン層とかにおいて近接してること、だと思う。ごっちゃにされることへの嫌悪。

「えっ、渋谷系嫌いなの?!」と驚かれそうで、まさにそこに「嫌い」のキモがある気がする。

「テクノ」とか「メトロ系」とかについてもそう。

たしかに細野晴臣は別格だし、上野耕路鈴木さえ子には、個別に、大好きな作品があるが。

 

ちなみに私がアルバム「イマジン」を好きになれないのは、ドラムのせいだ。

「ジョンの魂」は、音像のソリッドさで、その後のレノンのアルバムから際立ってる。そしてそれはリンゴのドラムのソリッドさのせいだ。

アラン・ホワイトが叩くと(プラスティック・オノ・バンドでもイエスでも)、音像が、分離の悪いマッスになる。

といいつつホワイトを見直した、という記事:

2ショット

一時期、中村有沙さんが本当に好きだった。プラズマ界アンダーワールドの女王様だった頃。

 

基本、グラヴュアって、カメラレンズ=読者の眼で、アイドルと読者とが1対1で見つめ合うものだと思うんだけど、あるアイドル雑誌のある号のグラヴュアが、中村有沙×飯田里穂、キャストが2人の企画で、どう向き合えばいいのか、戸惑った。

 

「撮る」ことは、「撮る・撮られるという関係を結ぶ」ことだ。

ふつうのグラヴュアは、撮る人1人、撮られる人1人、関係者は計2人。

2ショットは、「"2"ショット」というけど、撮る人1人、撮られる人2人、関係者は計3人。たんに2人から3人に増えて関係が複雑になるというだけでなく、中村有沙飯田里穂が1対1でじゃれ合う関係と、その2人と河野英喜との間の「撮る・撮られる」関係、2つの関係を同時に成立させる、という高次の構造だ。

 

戸惑いつつ、この企画の意義がどこにあるか、考えたのだった。

このアイドル雑誌は「U-15限定」がコンセプトだった。

ジュニアアイドルには作為的なポーズをさせるべきではない、自然な表情を引き出すことを大事にする、という姿勢だった気がする。

2ショット企画は、カメラを意識から外させて女の子同士じゃれ合わせて「素」の表情を引き出して捉える、という意義がある、というのが私の結論だった。

 

にしても、私とありちゃんと、お互いを認識し見つめ合う設定ではなく、私を意識していないありちゃんを傍から見てる設定、これは「窃視」だろうか?