説得力、イマジネイション

説得力とは。

ヒトの想像の及ぶ範囲には限界がある。ふだん関連付けて考えてないあの事とこの事とはこう繋がってる、と示し、ハッとさせ、腑に落ちさせる。

むかしTVで、外国のCMの特集番組があった中で、献血を呼び掛ける、ヨーロッパのどこか(ドイツだったかな?)のCMが強く印象に残った。

重傷を負い道端に倒れている少年。傍を無関心に通り過ぎるひとりの人物。そしてコピーが「あなたが献血をしないということは、すなわちこういうことです」

輸血が行われるシーンをふだんリアルにイメージしてないし、それと献血をするシーンとを結びつけて考えてない、そこを繋げて見せることが、説得力。

献血を呼び掛けるCMというと日本だと、誰か有名人を起用して来て「良い事だから私は実行します」的な一言をにこやかに言わせる、というイメージ(私がTVを見ていたのは大昔だから最近のことは知らない)。

 

イマジネイションの欠如。

「自分さえ良ければ」は正確には「今・ここさえ良ければ」だと思う。

私とあなたとは、仮令遠く隔たっていても、大きなひとつの「いのち」のこっちの出っ張りとそっちの出っ張りで、因果応報、「自分だけが良い」は有り得ないからだ。

スーパーの商品を本来とは別の棚に移動させて平気でいられる客。

私がその客について思うのは「自分の都合しか考えないことへの腹立ち」ではない。

自分と他人との関係、「個」とその棲み処である「環境」との関係をイメージ出来ないことへの不可解、だ。

自らが棲む環境のエントロピーをそうやって自ら増大させて気持ち悪くないのかな、とふつうに不思議に思う。

馴染む、理解する

この記事 

の中程で、「それまで理解できなかったものが『理解できる状態になる』ことの内実に、『馴染む』こと以外の要素ってあるのだろうか?」と書いた。

ドビュッシージェネシスに音楽美の範疇を見出していた小6の耳が、シェーンベルクの無調になってからのピアノ曲タンジェリン・ドリーム「アルファ・ケンタウリ」に出会って、まず戸惑う。どう聴けばいいのか判らない。

何度か聴くうちいつの間にか、なんとなく判るような気がし出し、あまっさえそこに「美」を感じ始める。

 

たしかに、知識として、作曲の仕組みを知ったり、そっちへ進まざるを得なかった作曲者の創作上の必然を知ったり、歴史的位置付けを知ったり、ということはできる。

でもそれだけでは「だから何?」であって、そのことと、そこに価値があると感じることとは、全く別のことだ。

価値の裏付けのためには、理屈はいろいろ挙げられるけど、結局は鑑賞を重ねるうちに「馴染む」ことを以て「理解する」というのではないか?

 

書くについても、それまで書けなかった無調の曲を書けるようになるとは、躊躇してたのを臆面なくやりだすということで、それを可能にするのは「新たなセオリーを手に入れること」であるよりも「耳馴染みが進むこと」だ。

 

 

「ピンと来る」「腑に落ちる」「切実に大切なものと感じる」状態にさせるのは、理詰めの説得ではない。

 

 

対象自身が持つ美にヒトの側が近づき気付くことが理解なのか? 対象の美は絶対で他で替えが効かないのか?

あるいはヒトが心理のメカニズムとして「美を感じる対象を欲する枠」をもともと持ってて、欲求を満たしさえすれば、その「対象」の項にアサインされる音楽は、割と何でも OK なのか?

あるいはあるいはその両者は、同じことの言い換えなのか??

散歩される音楽

ライヴのアイデア

 

概要

美術館か水族館のような内部構造の建物。

その各所に数十個のスピーカを配置する。各スピーカでそれぞれ別々の音の出来事が鳴り続けている。それぞれの出来事は、間欠的でもいいし、持続的でもいいし、パターンの反復でもいいし、それ自体何かの変化・展開を持つものでもいい。(トータルとしてうるさくなり過ぎない方がよい。)

聴き手は建物の中を歩いて移動してゆく。順路を設けてもいいし、好き勝手に歩いてもらってもいい。

いくつかの音の出来事が色んな方向、色んな距離から聴こえて、混ざり合ってトータルとしてひとつの音楽を形成してる。聴き手が歩くにつれ、前方のスピーカの音が近づいて来てクレシェンドし、後方のスピーカの音が遠ざかってディミヌエンドし、ブレンドの割合が刻々変化してゆく。

 

特徴

①聴き手それぞれのポイントで音楽が成立してて、それぞれの聴き手が、各人各様の音楽を聴いてる。

②聴き手の移動によって音楽が「進行」する。入場することによって曲がスタートし、好きな長さ曲を聴き、退場によって曲が終わる。

 

思い併せてもよいもの

イーノのディスクリート・ミュージック。ジャン=クロード・エロアの電子音楽作品「がくのみち」。"The Faust Tapes"。

"The Faust Tapes"については私の個人的体験からの連想。実家にあったCDがトラックに分かれておらず、43分間のトラックが1つという体裁だったのを見て、「これはもしかして『どこから聴き始めてどこで聴き終えてもよい音楽』として発想・提示されてるのか??」と思ったのだった。

 

考え方

街や、自然の中の散歩のように、その中を散歩するための音楽作品。

ちょうど、遊歩道では川がせせらぎ続け、歩みを進めるにつれ、その音が茂みの陰から漏れてきたり不意に足元にあったり、梢が戦ぐタイミングにちょうど居合わせたり居合わせなかったり、鳥が色んな定位色んなパースで間欠的に囀ったり、そして散歩者はいつどこからそのコースに入っていつどこからコースを逸れてもよい、というように。

でも、すでに自然があり、街があり、そこは「散歩され聴かれるべき音楽」に満ちてるのに、そこにさらにもう1つ作品を付け加えることに、意味があるだろうか?

作品を作るという目的の側から見れば、自然はそのための大いなるヒントをくれるけど、目的のための目的に陥ってる。ぎゃくに、世界の音楽を豊かにするという目的の側から見れば、その作品が無きゃ無いで誰も困らないではないか?

この作品を聴くことで、自然や街の物音への意識の向け方が変わる、「聴き方の提示」程度の役割は担えるだろうか?生意気に言って、啓蒙。

 

追記

Jean-Claude Eloy "Gaku-No-Michi" は2010年にCDが出てるのを今知った:

https://www.discogs.com/ja/release/2463745-Jean-Claude-Eloy-Gaku-No-Michi

1979年に既にLP2枚組が出てたようだが、この曲は4時間以上あるので、抜粋だった筈だ。

私がむかし聴いたのは、ごく一部、10分間くらい。実家にあったFM放送のエアチェックテープで。NHK電子音楽スタジオで作られた作品を年代を追って紹介する、3回に亘る特番だった。上浪渡がホストで、ゲストが1回ごとに、諸井誠、一柳慧柴田南雄。放送がいつだったか判らない。

エロアのこの曲が取り上げられてたのは第2回で、上浪氏がこの曲における「変化」の捉え方について論じてらした。

その正確な引用は出来ない。各トラックに持続的な音のイヴェントが録音されてて、重なってトータルで音階のうねりになってて、あるトラックが徐々にフェイドインして来て、代わりに別のトラックが徐々に退いてゆく、その変化が非常にゆっくりで、「今ここで変わった」と指摘できず、いつの間にか変わってる、というようなことだった。

私が大事だと思うのは、たとえば変奏曲のような、ある長さを持つ主題が、繰り返される度に形が変わってる、という「指折り数えられる」変わり方ではなく、「連続的な」変化だ、ということ。

 

私の「ライヴのアイデア」を、録音してCD化することも出来るし、それは表現形としてはイーノのディスクリート・ミュージックに似てるかも知れない。

でもそれは音楽の散歩の無限の順列組合せのうちのたまたま1通りのケースのシミュレイションに過ぎない。

 

さらに追記

以前ある方からこのマリー・シェーファーの動画

を教えて頂いた時の感想を、この記事への追記として再録する:

あまりに気持ちがぴったり来すぎたために、その場で感想を申し上げられませんでした。

曲が、完全な問いであり、曲自体がそれへの完全な答えであって、それ以上コメントのしようがない、みたいな。

ものすごく判りやすいし、ものすごく美しいし、ものすごく好きです。

私のイメージする音楽の在り方はとっくに先行事例があるのだな、と口惜しいです。

環境の中で自然の音を聴くのと同じ聴き方で聴ける音楽、自然の音を聴くことを、ちょっとだけモデル化して見せるのがすなわち作曲、みたいな、この曲を聴くことで自然の音の聴き方も変わってくる、みたいな。

音の場に包まれて、生で聴きたいです。

 

追記 2020年04月03日

Jean-Claude Eloy "Gaku-No-Michi" がアップされました。

2007年の CDr のフル。1979年の LP と同内容で、トータル2時間弱です。

この曲は4時間以上あるので、半分ほどの抜粋ということです。

4時間全部を収めた CD は、その後2010年に出ました。

1979年、2LP、Disques Adès 21.005、フランス

2007年、2CDr、Creel Pone 070, 071、アメリカ(unofficial)

2010年、4CD、Hors Territoires HT 01-2-3-4、フランス