確実にバカになってる。
「皿うどんをテイクアウトしたい」
「焼きたてのギョーザを食べたい」
「この(モスバーガーすらない)地方都市で私の欲求は満たされるのか?」
しかしこの問いは、問うと同時に答えが出る問いだった。問いという形を取る前に答えがあった。何故なら、この町にはリンガーハットがある。2つの欲求を2つながら同時に完全に満たす。
数か月前にユアエルムにリンガーハットが入った。まだ一度も試してなかった。
私の脳みそは「皿うどんとギョーザを作りたてで且つ自室で孤食する」と「近所にリンガーハットがある」という2つのことを結びつけることが出来なくなってる。その2つは、「2つのこと」「問いと答え」ですらなく、「一如」なのに。
私は子供の時から今までずっと、食事は一人で摂って来たし、それが当たり前だと思ってる。食事を共にすることの重要を説き「孤食」を問題視する記事を見掛けるけど、私ぜんぜん困ってない。
ぎゃくに、ヒトと食事を共にすることが、不快で、苦痛だ。TV で、ヒトがものを食べてる絵が映ると、消す。
じっさい、なぜ、一次的欲求を満たす行為のうち「食べる」だけが、公共の場でおおっぴらにすることを許されるのだろう?
お店で食べるのは苦手だけど、西小山の中華屋さん「喜楽」の「ちゃーめん」には抗えなかった。私は今もチャーメンと皿うどんの区別が付かないし、じっさい場合によって指すものに幅があるんだと思う。
喜楽さんが2016年に閉店なさったのを今知った。