「思い出作り」

(2015年7月30日、記)

 

 

私の記事に頂戴した御コメントで思い出したことをひとつ。

 

 

「思い出作り」という言い種が嫌いだ。

修学旅行で思い出を作るとか、大切な人とともに時間を過ごして思い出を作るとか。

かように、青春の場面と結びついた言い種のくせに、思想として青春にまさに逆行する。

 

今を生きるんだ!結果として思い出として残るかどうかは、副次的問題だ!

 

後先の無い、今・ここへの没入が即ち青春の本体なんで、これを思い出として後々残そうなどとしらじらと企図しつつ、同一性・直接性の経験を取り逃がさずに済むものか。

 

 

もっともこれは飽くまでたんなる言い種なのであって、リア充する者はするんだろうけど、この言い種の気に入らないもう1つの点は、「いたずらなひねくれ」だ。

 

レトリックは大事で、でもそれはそのレトリックによって何かを言い当てるとか、硬直した見方に揺さぶりをかけて見えなかった真実が見えるとか、別な文脈に置くことで新たに意味を生むとかのために使う限りにおいての大事である。

すなおに「一緒に過ごそう」と言えばいいところ「思い出を作ろう」とか、つまり凡庸な物言いしかできない自分に苛立っていたずらに色を付けてくるとか、困る。

 

もちろん、「ヒトは自分に飽き足らなくて手足を歪めてみる」(※註)のだ。

これには意義がある。

種としてのヒトのフレキシビリティ確保のために、この「いたずらなひねくれ」は備わっている。

でもこれは自然淘汰にゆだねる前提のものだ。

個人がいたずらにひねくれる「機会」は損なわれてはならない。ヒト種の未来のために。でも結果生まれたものが全部尊重されねばならないのではなく、ぎゃくにそのうちの99.9%は「死ぬために生まれてくる」のである。

 

 

※註 ヒカシューのアルバム『うわさの人類』1曲目「ト・アイスクロン」の歌詞ですが、手許に歌詞カードが無く、ググっても見つけられませんでした。漢字かな表記とか改行とかが不正確な引用です。