テクノ

本来なら、新たなテクノロジーの登場が新たな発想、新たなスタイルを生む、のであるべきなんだけど。

作り手個人の体験でいうと、機材をあてがわれて、作業プロセスのいちいちが発見のプロセスで、機材が提案してくるものに無心に耳を開きこれに触発され、自分の出す音が、自分で予想だにしなかったものである。

 

私個人の「打込み」との出会い方は、大きく事情が違ってた。

音楽はまず私の中にあった。それを具現化することが作曲だった。

頭の中にあるイメージは鮮明だった。フレージングや強弱法はピアノ・レッスンで身に沁みついてしまったクラシック流のものだった。木管やホルン、弦のコン・ソルディーノ、グロッケンのアラベスクのオーケストレイションが鳴ってた。

ごく若い頃は、手弾きで、ピアノとキーボードと、間に合わせの機材での録音を試みもした。そこでは、頭の中のイメージと出てくる音とが埋めがたく隔たってた。それは「そこにも面白さを見出せる」ものじゃなくて、貧相と不本意がひたすら焦れったかった。

「打込み」が私に齎されたのは10数年前である。

作曲者自らさらって弾いてここまでしか出来ないのに、機械風情にやらせて何が出来るものか、と高を括ってると、頭の中のイメージ全くそのままの音楽が実現してしまって、びっくりし狂喜すると同時に、口惜しかった。

つまり私にとっては、頭の中のイメージありきで、それをどう実現するかが問題で、そのためのツールとして打込みが最善だった、という順序。

 

私がテクノを親密に感じないのは、(世代の問題というより、)以上のような発想の違いのせいなのかな、と今ふと思う。

YMO 自身は、根本に「グルーヴ」への問いがあった。「テクノの人」になれるのは「テクノだけの人」ではない。

YMO 登場の当時、その影響が大きすぎて、「テクノで音楽を知ってテクノを始める」エピゴーネンを大量発生させる状況があったように見える。それを私は「自らの中に音楽をもたない者たち」といったん思い、いや音楽の生まれる現場としてものすごく正しいのだ、と思い直す。

 

私は、1980年代を飛び越えて、1970年代スピリットの人*1なので、YMO よりもサディスティック・ミカ・バンドに親密を覚えた。そして私はロックの人であるよりもプログレの人で、ロック全般について、プログレ耳に引っ掛かるものに選択的に反応してた。サディスティック・ミカ・バンドは私にとって「何かが海をやってくる」「黒船」、就中「四季頌歌」だった(「タイムマシンにおねがい」「塀までひとっとび」ではなく)。

 

実家にあった YMO は『テクノデリック』*2だけだった。これが永らく私の YMO 認識の全てだったのだけど、最初期の、というかそもそも YMO 結成のきっかけである 'Firecracker'(Martin Denny のカヴァー)は「#完璧だと思うポップソング」だし、このつべの画像、UK 盤のジャケは本当にかっこいい:

坂本の「根性の手弾き」の生ピアノのアドリブが聴ける。

*1:私は自らをしばしばこう規定するのだけど、これはひとえに『ユーロ・ロック・プレス』表紙の文言「'70s spirits」のパクリです。

*2:このジャケだった:

私は永らくこのアルバムの正式タイトルを『いわゆる「テクノデリック」』と思ってたけど、それはこの初回盤の帯でだけのものなのかも知れない。