渾沌

私がサン・ラーを最初に実際の音と絵として聴き、視たのは、何かのフェスでの「アルケストラ」の映像で、いっぽうでは確実な衝撃、いっぽうでは巨大な当惑だった。

大人数の演奏家たちが、各々デタラメと見えることを、取り憑かれたような熱量を以て、やってて、全体として喧騒・渾沌・巨大な音塊が出来てて、持続し、流れうねってる。

指揮者の位置にサン・ラー御大とおぼしき人物が立って、楽団を睨みつけ、適宜何かの仕草を送り、それに合わせて演奏に変化が生じてる。

ある方向に腕を上げると、そっちの一群が「パウパウパウパウ」とやりだす、みたいな。

その仕草は明確な「サイン」なのか? 仕草と演奏内容との間に、厳密に一対一対応の約束事があるのか?そうではないのか?

指揮者の頭の中には段取りがあるのか?

個々の演奏者に自由はあるのか?

トータルとしてどこまで完全にフリーなのか、ある程度は枠組みや予めの計画が設定されてるのか。

もしかしたらこれは「大掛かりなインチキ」なのではないか?

つまりこれは私の「初サン・ラー」であると同時に「初フリー・インプロ」だった。

これかな:

速攻 CD 屋に走ってとりあえずその場にあった「サン・ラー」名義の1枚をゲットしたが、ふつうにジャズだった。件の映像が私のサン・ラーのイメージになってたために、あの時の当惑と逆向きのベクトルの巨大な当惑だった。

 

「渾沌」の語を使うのには慎重になる。訳語に何を当てるのが正しいか?

もともとは中国の伝説上の獣ないし怪物、もしくは神。

典拠はいろいろ挙げられるし、形姿の描写もあるけど、こういうものの常として諸説入り乱れて、典拠に沿おうとすればするほどイメージが飛散してわけわからなくなる。

これが、chaos の訳語を当てられることの多い、ものごとのある状態をも指すのは、もともと神としての渾沌の性質なのか、荘子がきっかけで行われるようになったのかは、私には判らない。

なんしろ、荘子での「渾沌」は「自然」すなわち「ピュシス」であって、私の身勝手な用語としての「カオス」と食い違う。

すなわち、世界のおおもとは「ピュシス」で、ここから「コスモス」が生じる時に、そこから排除されたものが「カオス」。

「カオス」がおおもとでここから「コスモス」が生まれる、とイメージしがちだけど、そうじゃない。

そして「カオス」は隙あらば「コスモス」に侵入し、攪乱する。「コスモス」的にこれは災難でもあるけど、刷新の機会でもある。

 

なぜ誰もツッコんでくれない?!