そういえば、よく夢で、昔の作曲打込み曲の録音が出て来て or 残ってるのを確認して、僥倖に大喜びする or ホッとする、というのを見た。
パート数の多いオーケストレイション、アヴァン・ポップ的ニュー・ウェイヴ的に気の利いた「立った」曲構成、今の私には再現も新たに作るのも出来ないようなもの。
私はここまでやれる、かつてはやれた、という証明を残せた、という喜びと安堵。それが大きいぶん、目が醒めてがっかりするんだけど。
テープ。サイズ的には DAT っぽいけど、A面B面があった気がする。
プリンス・オブ・ウェルズ号が海に沈められたという報せはぼくのイメージをかきたてた。それはぼくの内部で豪華に膨れあがった。やがて惨めたらしい豆粕を喰わされて、ぼくたちは動員の基地で黒い牡牛を屠殺した。そして敗戦になって、進駐してきたG・I からもらったリグレイのチュウイン・ガムを噛みながら、ぼくのプリンス・オブ・ウェルズ号は吐きだされたガムのようにみすぼらしいものになってしまった。
ぼくは、ぼくの豪華なプリンス・オブ・ウェルズ号を再建しなければならない。ぼくの仕方で鉄骨を組んで、ぼくの手で鋲を打って、ぼくのイマジナリーな設計図(プラン)を証したい。プリンス・オブ・ウェルズ号のイメージは、ぼくを訪れた最初の近代のイメージだからだ。死んだような日々のなかでそれだけが鮮やかだった。
ぼくの船はぼくが鋲を打つたびに無骨なものに変ってゆく。のろい鈍い船になってゆく。豪華なイメージは苦しいものに変る。時とともにぼくにはそれが解るようになった。鉄骨の枠組のままにぼくのイメージのプリンス・オブ・ウェルズ号は朽ちるかもしれない。しかしぼくには豪華なイメージがある。そのイメージがもっとも確かな時間となってぼくの内部に生きつづけている。
しかし、船は港から出て港へ帰るべきなのだ。宿命論とは無縁な優しい自然のこととして……。港は自分の内部だけにしかない。まったくこれは初歩的な認識にすぎない。だがこのことで海の広さがわかるのだし、海の狭さが理解できるのだろう。
しかし、きみは絶えず新しいヴィタ・ノオヴァ号を建設することだ。きみ自身の港で。きみ自身の手で。
武満徹「Vita Nova」(1961年。1971年のエッセイ集『音、沈黙と測りあえるほどに』に収められる)から抜粋。
「絶えず」の一語は記憶に無かった。重要かも知れない。
動画撮影にはスタビライザー(ジンバル?)が必要だなあ。さもなくばドローン。