「間(ま)は『あける』ものではなく『つめる』もの」というフレーズを読んだことがある。邦楽演奏での話。武満の対談集のどこかだったかも知れない。
お能の鼓で、「イヨウ」と声を発してから鼓が「ポン」と鳴るまでの「あいだ」が重要で、「ポン」と鳴った時にはもう終わってる、という、時間感覚、時間論。
邦楽は「間」を大事にする、といっても、「この箇所、どのくらい間をあけようか」と検討する、というのは、違うんじゃないか。
間を「あける」と「つめる」とは、たんに同じものへのアプローチの向きが逆、なのではない。あけるものと捉えるかつめるものと捉えるかの差は、間というものを何であると認識してるかの、根本的な差だ。
あける間は、計量されるもの、そこにあるのは、物理的な、均質に経過する時間、なのではないか。
つめるものと捉える時、間は、その「密度」が問題にされてるのではないか。濃密な時間。意味の横溢。
「密度を求める」結果として、間がある。「意味の密度は、物理的な音の密度が作るのではない」ということが認識されてて、前者を求める結果、後者が極限まで削ぎ落とされる。
「間を活かす」というと、如何にも趣味の良い、リラックスした、寡黙でうるさくないものを有難がる、という態度になる。でも間というものは、緊迫の持続、気の抜けない、最大うるさいものであらねばならないのではないか。