イマジネイション

追記(2022年01月27日)始め
友人から
「お弁当チンして食べたい勢としてはあったかいポテサラより冷たいポテサラの方がいいので、うちは取り出し可能なカップ賛成派」
との指摘を貰った。
そうかなるほど! おかずカップは食べ方の選択肢のための気配りであって、私の方がそれに気付けなかったのか!
追記終わり

私は「セロテープ」という。短いから。「セロ」でもいい。
あなたは「セロ」派? 「セテ」派?
それもそうだし、「セロハンテープ」とはいいづらい理由がある。「セロフェイン・テイプ」じゃなくって?という邪念が鎌首を擡げるのだ。
「セロテープ」なら商品名だからぎゃくに変更を加えてはならない。この形のまま使うことについて、根拠を私の主観以外のところに求めることが出来る。企業名「キヤノン」と同じ扱い。「富士フイルム」。「キユーピー」。「ブルドックソース」。「花キューピット」。

作る人のイマジネイションが、買う人=使う人の都合を捕捉出来てない場面に、イラついてはならない。ヒトのイマジネイションは、限界をもつことを以てその本質とする。
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fig. 1
とあるスーパーのお弁当が、そのおかずの内訳にポテサラを含むんだけど、これがおかずカップ(fig. 1)に乗せてある。お弁当容器の中は壁的な出っ張りで小さく仕切られてるのだから、そのうちのひとつに「じかに」置けばよいものを、なぜわざわざおかずカップに乗せるのか?
使う人として積極的に困る。お箸で一口分取ろうとすると、ポテサラ全体がおかずカップごと持ち上がってしまう。容器にじかに置いてあればこういう事態は出来しない。「お弁当ケースごと持ち上がる」ことは起きない。このイランコトシイが!!
イラついてはならない。
左手指でおかずカップを押さえておけばよい、と反論されそうである。しかし、そもそもなぜお弁当なのかを思い出して頂きたい。お弁当とはどういう場面で使われるものなのか。
私の部屋にはテーブルが無いということに、作る人はイマジネイションを及ぼして頂きたい。
いっぱんに、お弁当は、食事の行われる場の状況を問わない。戸外への携帯のためにこそお弁当はある。そこにはテーブルが無い。左手で容器を支持する。左手をテーブルとして使う、と表現してもよい。
左手は塞がってるのだ! ポテサラを乗せたおかずカップを押さえるための左手は!

そのスーパーのそのテナントはまた、お弁当容器の上蓋を固定するためのセロテープを、容器の形状にぴったり沿わせて、貼る。容器とテープとの隙間を作らない。指を滑り込ませる余地が無い。剥がせない貼り方すんなや!!
イラついてはならない。

食に関することである。作る人=使う人な分野、イマジネイションにギャップの生じない分野、の筈なのだが。


ある種の、「巧みな文章」を勘違いしたスカした文体を真似ることを企てたけど、徹底できなかったぶん、マジでいやーな文章に仕上がった。