Lou Reed "Metal Machine Music"

ルー・リードここから入ってたら近道だったのに。

Lou Reed "Metal Machine Music"(1975年)。

アメブロで ねこちん 氏がお取り上げになってて知った。

 

ねこちん氏ご指摘の通り、驚くべきはまずルー・リードの「聴覚の良さ」だ。

音響としての微細な構造もだけど、モーダルで、メロディに溢れてることも、愉悦の一因。

 

これを LP 2枚組で出すことに積極的な意味がある。

私は長いものが苦手だ。何故か?

ふだん「浸って聴く」ことがない。後先覚えず身も世も無く「いまここ」だけの状態=音楽体験の「本番」であるより、「あとで聴く」ブクマに近い、というところがあるのではないか?

もちろん集中して積極的に聴くのだけど、どこか、「情報」として「意識」でもって片して、理解し終えたものを順次後ろに追いやる感じがある。

曲が「味わう」ためのものであるなら、長いほうが有難いが、「理解する」作業のためには、冗長は敵。

 

劫単位でも、(逆にピコ秒単位でも、)音楽を考えることは可能だ。なのにポップ・ソングが3分間なのは、ヒトの集中力の持続に限界がある、「飽きっぽい」から。

といっても、曲は世界のモデルだ。3分間の中に閉じることではない。3分間であることによって却って象徴的に世界を宇宙を示す。

 

音楽ってヒトの生理に根差すなあとつくづく思う。

「退屈の対義語」、これが音楽の定義にもなりそうだけど、ある時間の経過を退屈と感じる/感じないのはヒトの生理。

音楽「理論」がいかにヒトの「聴き方・感じ方」そのものであるか。

 

「愉悦」といった。たしかに私はこのアルバムを、退屈無しに、浸って、且つ耳を澄まして、全ての瞬間にうっとりしつつ、聴き通した。

好きな曲を聴いてるのにそうしながら終わりの時間を気にしてるし次の曲に半ば意識が移ってる、という時は、まだ「ブクマ」なんであって、いつか本気で浸って聴く、と思いつつその時はついに来ない。

"Metal Machine Music" は音楽体験の「本番」だった。

このアルバムは、世界の「モデル」であることからすら逃れてる。世界「そのもの」に限りなく近い。このアルバムには始まりと終わりとが無い。LP は収録時間が有限だから「しかたなく」、永遠の長さの、たまたまアルバムに収録可能な長さを切り取ってきた、という形式。

この音楽を「冒頭3分間聴いた。理解した。あとはもういい」じゃないんだ。この音楽は「体験」されるためにある。

 

「近道」も何も、私は未だにルー・リードのことは断片的にしか知らない。彼のどこかに辿り着いたという感覚は今も無い。ローリー・アンダソンとの関係についても知らなかったので、この曲を見つけた時は組合せにたいそう驚いた:

(2023年12月12日記 Laurie Anderson が Rou Leed と共演した 'In Our Sleep' のこのヴァージョンのつべが現在これしかありません。)

 

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