引き継ぎ

彼女がキーボーディストとして加入するまで、そのバンドは作曲者の打込みが基本で、ドラマーはクリックを聴き、キーボーディストはマイナスワン(打込みのどこかひとつのパートをミュートしてキーボーディストが手弾きすること)でやってた。

彼女の加入以降、打込みの使用はごく限定的になった。彼女が手弾きで対応出来たのには2つの理由がある。

①、宛がわれたパート譜をこなすのではなく、曲をフルスコア的に把握し解釈する能力があったこと。視点が、いちキーボード弾きとしてのそれではなく、アレンジャー的だったこと。

②、これが今回の本題なんだけど、キーボードの、コルグ的用語でいうところの「コンビネーション」機能を駆使出来たこと。

 

1曲の中で、キーボード1台だけで、複数の音色を使う。複数パートの重なり具合によって、音色を順次切り替えたり、複数の音色を同時に鍵盤上に呼び出したりする。

この「複数の音色を同時に鍵盤上に呼び出す」時に使うのが「コンビネーション」モードで、最大8つのパートそれぞれ個別に、音色、音量、定位、音域、どのヴェロシティの範囲で発音するか、移調、デチューン、を設定できる。

2つの音色を重ねて「オーケストレイション」することも出来るし、左半分の鍵盤がピアノ、右半分がヴァイオリン、とかも出来る。

限られた鍵数(61)の中に、それなりの音域を必要とするパートを、複数同時に、スプリットで(=重ねずに)並べるには、間を詰めるために、あるパートを「移調」せねばならない場合がある。同時に鍵盤上に呼び出されていながら、パート毎にキーが違う、ということになる。

重要なのは、コンビネーションが、個々の奏者の必要を満たすために、個々の奏者にとって使いやすいように、組まれるものである、ということ。

 

彼女が脱退する時、リーダーは彼女に、後任のキーボーディストに引き継ぎをするよう要求した。コンビネーションの組み方を教えろ、と。

必ずしも円満な脱退ではなかったが、彼女が要求を断ったのは「気が進まない」という理由からではなかった。

コンビネーションは、引き継げないものなのだ。彼女にとって使いやすいように組まれてるということは、他人が見ても理解出来ないということなのだ。リーダーが引き継ぎを要求したのは、そのほうが事がスムーズに運ぶと判断したからなのだが、逆だ。後任キーボーディスト自身が一からマニュアルを読んで、彼用にコンビネーションをカスタマイズする方が、身に付くし、ずっと手っ取り早い。

 

(フィクションです。)