収斂進化

いやあ、かっこいい。

 

私は複調・多調に、『プレリュード』あたりのドビュッシーを通じてピンと来てた。ミヨーやストラヴィンスキーから露骨なメソッドとして示されると、態とらしさに So what? ってなった。

 

プレリュード第1巻第4曲(「音と香と夕べの空に廻り来る」)を弾いた時に感じたこと。

ある声部の長音が、ピアノだから当然減衰してゆくわけだけど、その上に別のメロの断片なり音形が重なって来る。その時、それを和声のセオリーで捉えると有り得ない不協和だったりする。もし持続音で重ねたらその不協和が如実に判るところを、アタックと減衰で出来たピアノの音でやると、セオリー的には捉えどころがないけど、響きとして現に美しい。聴感上成り立ってる。

音を重ねるのに、セオリーで意味づける響きではない、具体的な響きそのものを素材に考えてるのでなければあり得ないやり方。

 

メロディの断片どうしが出会う。それぞれのメロがそれぞれの調性的色合いを帯びていて、反応し合う。協和がまずあってそこからずらしてあるのではないし、奇を衒うのでも濁りを期するのでもない、音と音との出会い方=和声の「辻褄合わせ」を拒む姿勢。

音楽のオペレイションの中での出来事というよりも、環境音の基調のドローンの上に梢の戦ぎや川のせせらぎや鳥の囀りやヒトのお喋りが重なってるのに近い在り方。囀りもお喋りもそれぞれの調性的色合いを帯びてるけど、お互いを妨げないし、場が成立してる。

 

Sly And Robbie のこの曲 'Boops (Here To Go)' をどうカテゴライズすべきか知らない。ここでの音の重ね方は、ダブなり、サンプリングなりの発想に由来するものだろうか? 歌もラップも、コーラスも、擦弦も、口笛も、スティックで叩くベルもフルートも、それぞれ固有の調性的色合いを持ったまま集められて来た、面白い音の出来事を集めて来たら、たまたまそれぞれが固有の調性を帯びていた、というような重なり方は、私がドビュッシーを通じて馴染まされてた多調のあり方に、図らずもよく似ている。

以前、「音楽で、似てるといわれるけど直接の影響関係が無い、という例」「突き詰めたらどうしてもここに来るよね、的境地」がありそうでその具体例を咄嗟に思い出せない、ということがあった:

今回のケースはこの具体例かも知れない。

 

'Boops' の MV は映像もめちゃめちゃにかっこいい。3分17秒目のカットがいちばん好き。

私はアナログで手作り感のあるものが好きだ。

ほぼ同時期のこれはダサいと思う: