音楽はパーソナル

お皿が割れた。落っことして割ったお皿の数は今まで数知れないが、今日は、洗って布巾で拭いてる時、私の手の中で割れた。

ティーセットの、磁器の受け皿。蒸籠を持ってないので、ふつうの鍋に浅く水を沸かして、ティーカップで高さを作ったうえにこのお皿を置いて、セブンのパンを蒸すことがあった。温度変化で膨張と収縮を繰り返したせいで「内側から割れた」のだろうか?

(つまり電子レンジも持ってないのです。)

 

吉田秀和『LP300選*1』のエピローグに、LP を「軽くしなやかな化学製品」と呼んでる行がある。子どもの私はこれをたんなる気の利いた修辞と思ったけど、要するに SP との対比でこう言ってたのだな、といまさら気付く。SP 盤は重い。落とすと割れる。

たしかにこのエピローグは、音楽会の代用ではない「レコード」鑑賞のもたらす解放と自由についてのものだった。

 

「私は、音楽会やオペラ劇場で、音楽をきくのも大好きであるが、しかし、レコードは、今や、その音楽の世界につつまれながらも、私たちの生活に、それ自体としての一つの完結したよろこびを与えるものになりきったと、私は思う。かつて、フランスの詩人、ピエール・ルイスは、古代の人の知らなかった近代人の喜びとして、喫煙と読書をあげていたけれど、二十世紀半ばの私達は、そのうえにさらに、レコードを聴く楽しみを、つけ加えるべきではないだろうか。レコードは、あくまでも、音楽会の代用ではない。そこに鳴らされるものは、絶対に音楽会のようにゆかないのだが、音楽会になく、それとまったくちがう性格のものを、内に秘めている。

レコードは、親しい何人かの人といっしょに、あるいは、ひとりっきりできくものである。自分の部屋で。レコードは、自分が音楽をききたくなったときに、自由に、とりだしてかけることのできるものである。かつての王侯貴族は、それに似たことができたかもしれないが、しかし、その人たちでさえ、こんなに簡単な操作で、こんなに静かに、こんなにひとりっきりで、音楽の慰めと楽しみを味わうことはできなかった。

レコードは、きく人を、音楽を通して、見える世界からつれだして、ある見えない世界につれてゆく。そこでは、人は、何かから解放され、自由になる。レコードの醍醐味は、このひそやかな自由、この軽快な解放感にある。この軽くしなやかな化学製品の円盤は、その解放の約束であり、その彼方には、自由がある」

「彼は、私に、こうしてレコードをきいている時が、いちばん、他人とのつながりを、暖かく、感じるというふうなことをいっていた。仕事の場や、街頭では、彼は、まったく《孤独な群衆》の一人なのだ。レコードだけが、彼の精神を、その孤独のままに、自由の中に解放することができる。「私たちの国には、こういうインテリが無数にいる」と、彼はいった。

以来、私は、レコードのことが、わかりかけてきた」*2

 

そして音楽鑑賞のこの軽快なスタイルは LP 発明で完成したものだ。このタイミングで『LP300選』が要請されたわけだ。

 

私は従前、音楽はパーソナルのもの、ひとりでヘッドフォンで聴くもの、といってるけど、これが可能になったのってたかだか70年前なんだな。

 

落とすといえば。

最後に猫の抗議の声も拾ってるし。

*1:新潮文庫版はこのタイトルでした。

*2:追記 2022年06月29日

ウェブ上のテクストをもとに「ピエール・ルイスは~付け加えるべきではないだろうか」の箇所を引用してましたが、手許に『LP300選』の現物が出て来たので、その前後を長めに引用し直しました。