むかし、数人と歓談してて、しんかいの曲にはしんかいが現れてる、と言われた。褒め言葉だったんだと思う。
「私が現れちゃっていいのかなあ?」
と呟くと、途端に3対1でやり込められた。
「あなた、今すごく変なこと言ったわねえ!」
「でも、私と作品とは別なので…」
と返すと、また3対1で責められた。作品に作者が現れるのは当然のことだしいちばん大事なこと、という前提の方たちとの落としどころは、
「…少なくとも、現れちゃうのは仕方ないけど、現そうとしちゃダメですよね?」
ここでは2つのことがごっちゃにされてる。
既存のセオリーに責任を丸投げする、その意味での没個性への苛立ちと軽蔑は、私も共有してる。
でも作品は、音楽は、私個人を超えてる。
自分でも好きな曲は「作った」より「出来ちゃった」感じがある。
芸術は「自己表現」ではない、作品と作者は別、という感覚が私の基本にある。
その人を通して来るけど、その人から来るのではない。
その人の耳によって、その人にしかできない聴き方で、聴き取られた、という意味でユニークではあるけど、
作曲とは、既に鳴ってるもの(外界にせよ私の内部から来るにせよ)を聴き取るアンテナの「レンジ」と「センシティヴィティ」のことだ、という感覚。
P-MODEL 'PERSONAL PULSE' の行
ラジオのような
体になって
が私のための金言。