下書き放出

私が関わりたくないし関わりようがない者の筆頭が、スーパーの買い物かごを戻す時、斜めに重ねたり、持ち手を立てた状態にしたりする者、なのは間違いない。

 

イマジネイション欠如の問題については、この過去記事に書いた。

「『自分さえ良ければ』は正確には『今・ここさえ良ければ』」

「自らが住む環境のエントロピーをそうやって自ら増大させて気持ち悪くないのかな、とふつうに不思議」

 

それもそうなんだけど、買い物かごの件の場合、「デザインへの冒涜」である、というのが輪を掛けて許せない。

私は、バウハウスかガウディかどっちか選べ、といわれたら後者を取る。信条としては。

でも、ヒトは信条のみを生くるに非ず、「日常」は、規格化して、効率的に処理すべし。

買い物かごは、積み重ねて、スペースの占有を最小に出来る。規格あればこそ。

この偉大な工夫、偉大な発明を無にする、しかも「無為」の為せるところとしてそうする者と、関わる術は無い。

これも結局は「自分の始末は自分で引き受けろ、それが出来ないケースでは、始末を(「デザイン」などの形で)引き受ける方への敬意と感謝を忘れるな」という、同じ問題。

 

「食事」は私にとって「効率的に片すべき日常」だ。掛ける時間は短いほど良い。クォリティのためならどんな手間も厭わない「音楽」と真逆。

 

「音楽に政治を持ち込むなよ」の時に、あるコラムニストがこれを「音楽という日常に政治という非日常を持ち込むことを嫌う」みたいに分析してるのを読んだ時、逆だと思った。

政治こそ日常だし日常こそ政治だ。音楽は日常に属さないし日常を超越する。