ベスト

むかし国語辞典をプレゼントされた。アカデミックな権威とされるある出版社の。今も刊行されてるか知らない。その後改版があったかも知れない。

下さった方に申し訳ないけど、使えない辞書なのはすぐに判った。定義がいちいち甘い。見出し語は読者にとって意味不明の語だ。その意味する範囲を、ここからここまで、と明確にすることが定義だ。定義する語は、定義される語よりも意味が厳密でなければ、定義に使えない。

その辞書は、意味不明の語を別の意味不明の語に置き換えるばかりだった。「定義する語」も語である以上もともと多義的だが、いま執筆者がそのうちのどの意味で使ってるのか、読者の側が忖度せねばならない辞書。

執筆者と読者とのあいだに予め了解されてる意味範囲があることが期待されたうえで進められる定義は、定義ではない。いやそこは突き詰めれば全てが不可能になってしまうんだけど、辞書を編纂しようとする者のそこへの態度が初めから甘いとか、有り得ない。

 

「ベスト」の項を見た時その辞書を捨てる最終判断をした。このひとつの見出し語のもとに、①【best】②【vest】が扱われていたので。

例えば「箸」と「橋」を一つの項目内で扱うことはしないのに、これを外来語についてはやってのける。

辞書を使って語を学ぶとはどういうことか。たんに知らない語の意味を調べる、というに留まらない。辞書を使いながら、頭の中に首尾一貫した言語体系を組み上げてゆく。それは乃ち、首尾一貫した、全ての学問の基礎となる「世界観」を組み上げることだ。便宜のためといって、端折られたり歪められたりする部分の生じることは許されない。

 

ツイッターでフォロー差し上げている方が、「チョッキ」「ベスト」「ジレ」の違いについての記事をシェアなさってるのを拝見して、思い出したのだった。

たまたまふと、「たんぜん」という語を、ものすごく久し振りに、思い出してるところだった。

私が最初に聞き憶えたのは「たんぜん」だった。子どもの頃、その語を私に齎した方とは、短い交流だった。福岡の方だった。その後私のボキャブラリーを「どてら」「はんてん」が占めた。「たんぜん」の語は忘れていた。「タンジェリン・ドリーム」「ピート・タウンゼンド」の名前を聞いた時、よぎったくらい。