クイーン

昔、ある方にジェントル・ジャイアントをお聴かしせたところ、クラシック要素に着目なさって、これと「ボヘミアン・ラプソディ」におけるクラシック要素導入とはどう違うのか、と問いかけられて、クリアに回答できなかった、ということがあった。

基本、クイーンは完全に他人事ではあるのだけど、クイーンを話の契機にすること、クイーンとの差異でプログレを考えること、はできる。

クイーンにとっては、クラシックは既成事実で、これを「取り入れた」、取り入れることによる「効果」を狙った、のだと思う。こうするだけでもロックにおいてはクリエイティヴと見做されがちだし、プログレと目されるバンドの多くにおいてもクラシックはこのように扱われてるかも知れない。

ジェントル・ジャイアントにとってのクラシック、というか古楽や現代音楽*1は、それによる効果を欲してるのではなくそれ自体が探究、と見える。そしてまさに、わたし的プログレのあっちとこっちの境目はここにある。

 

夢見がちな小6の少女はしかし、セカンドアルバムのホワイトサイドに、彼女のプログレ欲を満たす叙情を見出していた。彼女のプログレ観はそういうものだった。

この下地が無ければ今の私のプログレ観が無いのは確かだ。

とくに好きなのはこの曲なんだけど、1曲だけ抜き出して貼るのには躊躇がある。前曲 'Father To Son' からのメドレーでの繋がり方がとくに今の私の美意識に影響してるので。それは、Can "Ege Bamyasi" の 'Vitamin C' ~ 'Soup' の繋がり方とともに、そうなので。

ブラックサイドこそクイーンの真骨頂なのだろうけど、つまり小6当時の私の欲してたものがホワイトのほう=ブライアン・メイのほうにあった、という話です。

 

あと、ロジャー・テイラーのスネアの、やたらローチューンの音色が、どうしても理解できない、ということを力説しておく。

*1:ジェントル・ジャイアント全盛期のイギリスには、片方にデイヴィド・マンロウが、もう片方にベンジャミン・ブリテンが、存命だったことを思い出さずにいられない。