今回のあらすじ
①基本スタンス
②叙情
①基本スタンス
他人が既にやってることはやらない。
自らがやったことは2度やらない。
ストラヴィンスキーとラヴェルがシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」を知って
「いかん!」
となる。
切磋琢磨がチキンレースと化す。これを健全な交友関係という。
個室に引き籠っての作曲打込み作業でも、発想が根本から新しくなければならないし、響きとして既知が含まれてはならない。
無駄な音が1音たりともあってはならない、無駄な時間が一瞬たりともあってはならない。全ての箇所がインスピレイションまたは彫琢のどちらかによるのでなければならない。
エディットの過程で音程や符割への感覚がどんどん鋭敏になってゆくし、もっと単純な話、テンポに慣れ、間延びに耐えられなくなって、BPMがどんどん速くなってゆく。
そういう「突き詰め」「研ぎ澄まし」は当然であって、そこを妥協してはならない。
「プログレッシヴ」とは。「考える」とは。
「考えている」あいだは有効である。「考えた」ことは無効である。
考えを踏み台にして次の考えに進む現在進行形のプロセスだけが「考える」である。
踏み台として作る煉瓦に作品としての美を見出し鑑賞してはならない。
ひとりでまたは少数の仲間内で先鋭化させる感覚を以て、うっかり、世間で行われる批評活動に接すると、がっかりする。
「マッカートニーは音楽に対して誠実」と言ってたり、アコアスについて「美の極致」の語を用いてたり、他で替えの効く埋め草に過ぎない◯◯◯◯(口にするも汚らわしいので伏せ字)をユニークと評してたり、普段どんだけ貧しい音楽生活を送るとこんな鈍らな批評眼になるのか?
あれが通るんなら誰も苦労しない。
ユーロ・ロック・プレスのディスクレヴューを読む時「シンフォ」をスルーしてたのは「音として好みのタイプじゃないから」ではない。
シンフォは音としてのタイプというより、シンフォという「聴き方」、踏み台たる煉瓦を作品として鑑賞する「態度」を指す言葉なのだ。
②叙情
基本スタンスは以上だが、今回はもっと叙情的な話をする。
まえにこの記事
で咄嗟に思い出せなかった、「出会い方」というテーマで書くべき内容について。
私は、食べ物については、素材の質感を残すものを、抽象度の大きいものよりも、好む。
粗挽き。つぶあん。
マッシュト*1・ポテト*2はなるべくゴロゴロしてるもの。なるべくペイストから遠いもの。
芸術については逆に、例えば陶器より磁器を好む。
素材の質感への感受性を、「造形」の敵と見做す。
立ち止まって再検討するに、アコアスに「美の極致」を見出せない私の感覚の方が麻痺してるのだとも言える。
質感への、素朴への、感覚を取り戻すための「出会い方」がある。
木立の向こうに垣間見える建物は美しい。
建物そのものの性質や価値ではなく、置かれた環境に依存する「見え方」が価値を生む。
いつもの散歩コース上の地点に、思いがけず別方角・別ルートから差し掛かるとハッとする。
方角と距離の認識の歪みが修正され、地点が意味付けし直され、頭の中の地図が書き変えられる。
キャメルは、例えば新人バンドの音楽性を説明する用語として「キャメルタイプ」があるくらいの「典型」になってる。
でも本来、「プログレ5大バンド」を一通り修めた後キャメルに出会って「まだこんなおいしいものが残ってたのか!」と驚く、というのがキャメルの正しい聴き方だ。つまり「B級なのに」という前提で初めて成り立つ感動。
ハナから大御所・オーソリティとして聴かされると、感動しない。
1970年代のプログレリアルタイムには「プログレ4大バンド」と言われたと聞く。つまりジェネシスは含まなかった。
私にとって、「プログレ1大バンド」を選ぶならジェネシス、なんだが、仮に「4大バンド」を通過後マニアックな存在としてのジェネシスを知るというケースであったなら、別な種類の驚きを以て「出会った」にちがいない。
となると、上にリンクした過去記事で、「棲み分け」についても、何を書こうとしたのか思い当たる。
「B級」は「A級」に次ぐもの、ではなく、「出会い方」に基づくダブスタによって棲み分けるのだ、と。
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