回答というほど真っ向からではない

視覚と聴覚の関係についてはこの記事で触れた:

 

昔、真っ暗な部屋で床に仰向けに寝て、感覚に対して感覚を研ぎ澄まそうとしたことがあった。その時思い知ったのは、私は「視覚の優位」から逃れられない、ということ。

指先が床に触れてる。部屋が真っ暗なのでこの触覚は視覚の影響を受けない「純粋な」触覚かというと、そうじゃない。

まず視覚的な空間認識が先行して「常に」あって、部屋が暗かろうが目を閉じていようがそこから逃れることは出来ず、先の指先の触覚も即座にその想定される視覚空間の中に位置づけられる。

自分の身体の各部位は、何かの物に触れることによる触覚や、筋肉に力を入れることによる内触覚が無い限り、そこに有るのか無いのかすら自覚できないが、そうであってすら、「そこに自分の身体が無い」という感覚に持って行くのは、その時の私には出来なかった。どうしても視覚的に想定される空間、その中に定位される自分の身体の視覚的イメージ、から逃れることが出来なかった。

物との接触や、筋肉にちょっと力を入れてみることで、そこに私の体の部位がある、ということを自覚する。その触覚もやはり、各個ばらばらに「宙に浮いて」感覚されそうなものだがそうはならず、私の身体のあのあたりだ、と位置付けられ、そしてその位置付けは必ず「視覚的に」為される。

私は純粋に触覚だけを感覚することは出来ないし、もし仮にそれが出来たとしてそこから「触覚空間」とでもいうべきものを描くことが出来るとしたらどういうものになるか、想像してみることすら出来ない、というのがその時の結論だった。

 

「自我はどこにあるか」というと、私は、脳でも心臓でもなく「目の位置にある」と思う(第1変換が「晋三」なのヤメテ)。

 

中村雄二郎の業績はいろいろあるんだろうけど、私が印象深かったのは「臨床の知」で、これは「レトリックの知」「パトスの知」などと言い換えられていた。

パスカルの件との関係でいうと、ニュートン以降の数量化される「均質無限空間」ではない「生きられる空間」、メタファーや象徴によって濃密な意味を生む「場」としての空間、というようなこと。

よく解ってないしよく憶えてもないですが。

で、そういう術語をいろいろ使って説明するより、「中村雄二郎的」と言っちゃうほうが、わたし的にすんなり通るかな、と。

今回書いた感覚についての話は、殊更「共通感覚論」との関連で書いたわけではないけど、奇しくも関係するのかなあ?