夜のガスパール

ラヴェル「夜のガスパール」をカザドシュの演奏(1951年)で探したら、つべにはこれしか上がってなかった。アロワジュス・ベルトランの原詩を英訳して朗読したもの(1963年)と交互に入ってる。

第2曲「絞首台」のイラストはベルトラン自身によるもののようだ。

これが気に入ったので、今回記事を書いてるようなもの。

ラヴェルピアノ曲はカザドシュの全集でまとめて聴いた。「夜のガスパール」も有難がって聴いてたけど、今は、アルゲリッチがあればいいや。

偏見に基づいて言うんだけど、カザドシュやギーゼキングドビュッシーラヴェルは、まずもって、一世代前のコルトードビュッシー演奏が付加したロマンティシズムを洗い落とす「アンチテーゼとしての存在意義」だったんじゃないか?

時代は下るけど、J. P. コラールによるラヴェル全集などはまさに、たんにザッハリヒでさえあれば有難がる風潮が当時あって、その中で評価されたのでは? 私の中でコラールは「ベロフの共演者」以上の意義が無いんだが。

 

 

マリウス・コンスタンによるオーケストラ版があるのを今知った。一応貼っておく。

この動画の解説にコンスタン版は1988年とあるが、Wiki 「夜のガスパール」によると1990年。

この解説には他にも問題がある。Eschenbach の綴りが間違ってる。どこのオケか書いてない(おそらくパリ管)。

 

これを聴く者の関心はただひとつの点にある。

ピアニズムの極致である「夜のガスパール」をオケに置き換えることに、どんな意味があるのか? どんな方法が可能なのか?

一聴後の感想は、無難で、とくに突っ込んだことはやってない、かなあ?

弦の音が勝ち過ぎてるし*1

ただ、Wiki に、わたし的にちょっと意外なことが書いてあった。

ラヴェル自身もこの曲にオーケストラ的な響きを想定していたようである。その例証として、この曲の解釈についてラヴェル本人から説明を受けたことのあるピアニストのヴラド・ペルルミュテールによれば、ラヴェルは説明の際に、特に表現については具体的なオーケストラの楽器の名前を持ち出して例示したといい、ペルルミュテールが校訂したラヴェルピアノ曲集には、そういったラヴェルの例示が記入されている」

むろん、「オーケストラ的な響きを想定」と、どこまでも「ピアノ音楽」であることとは、矛盾とは限らない。

このコンスタン版を聴くにつけ、いよいよますます謎なのは、ラヴェル自身が「ピアノ音楽」をオケに移すと、まるで最初から「オーケストラ音楽」だったみたいに鳴ることだ。就中、組曲マ・メール・ロア」。

 

コンスタンは、現代曲(自作曲含む)を指揮して少なからぬ点数エラートに残してる。わたし的にはオアナ「フェードルのための表節文字」が重要。コンスタン自作「狂気への賛辞」も、表現主義的オーケストレイションが面白かった、という印象。

 

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*1:追記 2023年06月20日

この録音は、エッシェンバッハの演奏の「生真面目さ」を聴くためのもの(コンスタンの編曲を吟味するためというよりも)、という気がして来た。

私はエッシェンバッハを全然知らなくて(ピアニストとしても指揮者としても)、この「夜のガスパール」が唯一聴いた録音な筈なんだけど、さいきん同じパリ管との「ボレロ」の動画を視た。虚飾を排するものすごく「生真面目」な音楽家なんだな、と思った。ブレーズみたいに殊更分析するのでもなく。小澤みたいに勢いで押し切るのでもなく。パリ管なら音色のゴージャスさで飾り立てることも出来そうだけど、それもせず。

そこが「面白味の無さ」にもなりうる、みたいな。

で、この「夜のガスパール」に立ち返ってみるに、これもまさしく「生真面目」そのものだな、と。