獺祭

だっ-さい【獺祭】①カワウソが多く捕獲した魚を食べる前に並べておくのを、俗に魚を祭るのにたとえていう語。②転じて、詩文を作るときに、多くの参考書をひろげちらかすこと。正岡子規はその居を獺祭書屋と号した。(広辞苑第四版)

f:id:shinkai6501:20180126204927p:plain

ビアズリー「執筆中のオスカー・ワイルド

 

獺祭した。本来は執筆のために目の前に資料を広げ散らかすことをいうが、私の場合はカワウソの習性をいう原義に近く、ごはんをズラっと目の前に並べた。

気付くと2週間食べてなかった。お腹減らなかったし。

 

ごはんは毎日食べるものと思ってた。

摂取したエネルギーを即消費に回してる間は気付かないが、食べるのを止めると、自分の内側からエネルギーを汲みあげて来る回路が開ける感じがある。そしてそれは無尽蔵とも思える。

過去最長33日間食べなかったことがある。何の変化も起きない。

立眩みひとつ起きない。空腹感も無い。

ただ、水平方向に歩くのには全く支障が無いが、上り坂ではたちどころに息が切れた。物を持ち上げたり、腕を挙げたまま支持したりも、すぐに筋肉が疲れた。

地球の重力は偉大だ。

あと、変化が起きてるのにそれに気付かない程度に意識に問題が生じていた可能性はある。

 

断食しつつ(水以外のものを一切摂らず)、毎日8時間一度も立ち止まらずに歩くのが好きだった。これは、八千代台を発ってまず花見川沿いの遊歩道に出て、ある時は東京湾まで下り余力によっては海岸線を千葉ポートタワーまで、ある時は逆に花見川を上り新川を下り印旛沼畔の佐倉ふるさと広場(チューリップ公園とオランダ風車)に達するのに要する時間。

往復歩いたり、復路京成線沿いを歩いて力尽きたら電車に乗ったり。

明確な希死念慮は無かったが、海岸を目指して歩きながら、同時に死に向かって歩を進めている実感が小気味良く、心が解き放たれていた。

解き放たれる?何から?私の生命をカタに取って服従を迫る摂理から。

 

というか、それをやる時間があったのだな、ある若い時期。そっちに驚く。

 

ある時ついに、意識が薄くなり頭が重くなり、このまま死ねるのだと思った。次に気付くと数時間の睡眠ののち目醒めたところだった。死に向かって一方向に突き進んでいたので、ヒトには睡眠というものがあるということを忘れてた。ヒトは疲れると眠って回復してを繰り返すんだった。

 

33日ということは、基礎代謝を1,200kcalとして、私の身体は39,600kcal+αのエネルギーの塊だ。私を食べたら33日間+α生きられる。私は私を内側から33日間食べた。

いくらでも続けられるのを33日で止めた、というべきだ。あまりに変化が無いのでイラついたのだった。

 

よい子のみなさんは自己責任でマネしてくださいね。