ナポリタンは滅多に買わない。
ナポリタンを買う時の心構えは、「好物で満足したい」とは別枠の動機だ。
ペペロンチーノ、きのこと刻み海苔と大根おろしの醤油ベース和風パスタの時とは違う。
自らに「修行を課す」色彩を帯びる。マゾヒスティックな。
嗜好品は、お酒にしろタバコにしろマゾヒズムだ。私にとってのナポリタンはこれに近い。
「こういう人生もまたオツなもの」、「甲」ではない文字通り「乙」。
「本当においしいナポリタン」は論理矛盾だ。
但し、今日買ったナポリタンは、パプリカとタマネギとウィンナーがたっぷりで、あまっさえ唐揚げを1つ添えるという「差別化」がなされてて、ナポリタンとしては邪道だった。オーソドックス、と言うよりさらに1歩進めて「味気無さ」を以てナポリタンのキモとする。
まあ、
メンダコも好きだけどオーソドックスなナポリタンもめっちゃ好きやねんですわい... pic.twitter.com/jGElsgYSLh
— risaripa (@risaripa) 2017年12月4日
この御ツイを拝見したうえで買い出しに出掛け、スーパーのお惣菜が半額の時間帯に行き合わせれば、抗えない。
カケレコさんで Druid をポチりそうになってる。
こういうものに食指が動くとはどういうことか。
優先順位をすっ飛ばして、これが欲しくなる、B級のための別枠が頭の中のCDラックに準備されてる、この料簡の正体って何だろう?
B級であるがゆえに、B級であること自体が理由で、価値がある、ということはあり得ない。
クォリティを上げることで取りこぼされる何かがある、Druid にはそれが保たれてある、のだろうか?
この記事は、一昨年の12月と去年の12月の下書きをもとに清書しようとしてるのだが、下書きはここで途切れてる。タイトルの「棲み分け」「出会い方」に該当する内容の部分が無い。何を書こうとしてたのか?
「作品が優れている」ことがそれを「好きになる」ことを保証しない、といって「優れていない」から好きになるということは断じて無い、とすれば「好きになる」「良さがピンとくる、腑に落ちる」の条件は「出会い方」なのか、というようなことだろうか?
思い出せない。
昔より頭がボンヤリしてると感じる。
実際にボンヤリして来たのか?
ボンヤリは昔からで、それを自覚できる程度に頭がハッキリして来たのか?
追記(2018年04月24日)
「棲み分け」「出会い方」に該当する内容を書きました。後半「②叙情」で。