「ノイズ」

以下、音楽の1ジャンルとしてのノイズ・ミュージックを鉤括弧つきの「ノイズ」と書き、一般的な意味の噪音=ノイズと区別します。

 

この記事 

を、今回言い換えてみます。

 

「ノイズ」とは畢竟「聴き方」なんだろう。

 

私が「ノイズ」作品を聴いた範囲では、例外なくディストーションが掛かってた。

アタッチメントとしてのディストーションを噛ましてるにせよ、過剰なゲインのせいにせよ。

ディストーションの無い「ノイズ」は可能だと思うんだが、というかディストートされてるかどうかと「ノイズ」であるかどうかはまったく別問題だと思うんだが、実例としてディストートされてない「ノイズ」作品が思い当たらない。

 

私がディストーションに意義を見出すのは、それによって、耳を澄ます対象としての、成分の多い、情報量の多い作品を作れる、というただ1点だ。

耳を澄ませば澄ますほど差異の至福で報いてくれる、微細な構造を持つ音楽を、乃ち「ノイズ」と定義できるのではないか。

あるいはそのような能動的な聴き方のことを「ノイズ」と呼ぶのではないか。

 

もっと受動的に、なるべくディストートされてて、なるべくレゾナンスがハウってる作品が「過激で気持ち良い」作品として好まれる、という傾向があるのかも知れない。そういう耳のためには「マッス」で事足りる筈で、私の考える「ノイズ」とは真逆の姿勢だ。

 

あと「ノイズ」を「魂の叫び」的な感情なり哲学なりと結びつけるのはロマン主義で私には理解不可能だ。