泣くポイントは悲しさじゃない

本当に何故だか判らないんだけど、番組のあいだじゅう、涙が湧いてしょうがなかった。

 

現実としても、精神世界としても、深くて広大で豊かで気高い世界が厳然とあって、苦難の歴史を超えて若い世代に受け継がれてる頼もしさを見せつけられたから、と、ひとまず説明は出来る。

 

番組としてのクォリティについての批評めいたことは私には出来ない。

「『いわゆる』開拓」と言っていたように、歴史認識に大きな誤りはなかっただろうし、BGMが世界を毀してるということもなかった。

 

どうしても言いたいことは、2つ。

1つ目は、音源が、資料的価値の大きさということを措いて、とにかく音楽作品それ自体として、めちゃめちゃにかっこいい、ということ。

(文芸作品として、ということになると、むろん私には歯が立たない。)

釧路のウポポのメロディの造形に、してやられた!と思った。

 

2つ目は、とはいっても、なにも泣くことはないだろう。してやられたというにとどまらず、ある種の親密さ、ある種の切なさ、曰く言い難い感情に押し寄せられたのは何故なのか。

ツイッターでフォローさせて頂いてるあるアイヌの方を、尊敬すると同時に、いつしか心の中で(心の中で)密かに(密かに)お姉さんのように慕ってて、番組視聴のあいだずっと、その方のことが頭にあった。きっとそのせいだ。

「悲しさ」ではないです。

 

例の、誹謗中傷をする者、個人の名誉にかかわる重いことを軽く、根拠無く、やってのける者への感情が、蔑み、憐みに収まらず、積極的な怒り、許せないという思いになったのも、中傷の対象がその方だったからだ。

正義は公平か。公平であるべきか。むしろ個人的事情、個人的感情を発端とするのでなければ、本当の正義は有り得ないんじゃないか?

 

あとひとつ、ウポポについて「輪唱」と説明されてたけど、「コール・アンド・レスポンス」というべきだと思う(「応唱」という用語はローマカトリック音楽に限定されるのかな?)。