ある和声法

作り手的には、人為で音を択んで、重ね、和声として進行させることの「わざとらしさ」の忌避。

聴き手的には、目の前で起きてる音の出来事を、概念越しにでなく、ありのまま聴きとる練習。

 

ありのまま聴こうとすることは、しばしば、作曲者の意図を尊重しないことであるが、作曲者の側がそこを含めて作曲の方法に取り込もうと企むこと。

 

ピアノのダンパーペダルを踏み込みっぱなしの状態で、単旋律を弾く。

延びつつ、減衰する音。

1個目の音が延びてる上に2個目が重なる。つまり「和音を作る」。

3個目が重なって、別の和音になる。つまり「和声が進行する」。

新しい音が加わるうちに古い音が減衰して、入れ替り、旋律の進行と和声の進行とが一如である。

 

問題は、この但し書きをつねに作品に沿えねばならないことで、聴き方を指示しないと、ふつうの単旋律に聴こえてしまう。

聴き方とは取りも直さず概念で、概念を捨てることは、もう一つの概念に依拠することだ。

 

ただの単旋律と聴きなしてしまう耳を説得する手段。例えば、録音し、途中から再生を始める、とか。任意の瞬間をサンプリングしてくれば、その瞬間が和音であること、曲の全ての瞬間が和音であること、が聴こえてくる。

 

聴き方の問題であるということは、既存の、たとえばカテドラルの深く長いリヴァーブの中で歌われる単旋律のグレゴリオ聖歌を、この聴き方で聴くと、和声音楽になる。聴き方が曲自体の性質を決める。