泥は堕落・腐敗の象徴として躍起になって排除する対象であると同時に、それ以上に、身を委ねてしまいたい衝動・憧憬の対象です。
排除するのは、他に用事があるからで、取り敢えずの途中経過を生きているからです。
身を委ねるのは、もう何もかもこれで良いと思えるからで、結局私はそこへ帰ってゆきたいのです。
野辺で、または自室で、孤独に死ぬ時、「腐る」よりは「枯れる」方が良い、と思った時期がありました。
冬の、冷たく、乾いた時期を、選べるなら選びたい、と。
これはでもまだ私が「生」の側にいて、「生」の側の価値観に「死」を取り込もうという企図でした。
死の実相を受け容れず、「生」に執着したまま、妥協点を探るようにして死んでゆくのでは、決して幸せに死ねない、と最近は思うようになっています。
コンテンツが1つ世の中に提示されると、そこにクリエイター、ユーザー、評論家がこぞって参画して批評体系が現出する様はダイナミックです。
玉縄桜というのを知りませんでした。
冬の名残りの空気の中で見る染井吉野というのは格別の風情です。
あまりに気持ちがぴったり来すぎたために、その場で感想を申し上げられませんでした。
曲が、完全な問いであり、曲自体がそれへの完全な答えであって、それ以上コメントのしようがない、みたいな。
ものすごく判りやすいし、ものすごく美しいし、ものすごく好きです。
私のイメージする音楽の在り方はとっくに先行事例があるのだな、と口惜しいです。
環境の中で自然の音を聴くのと同じ聴き方で聴ける音楽、自然の音を聴くことを、ちょっとだけモデル化して見せるのがすなわち作曲、みたいな、この曲を聴くことで自然の音の聴き方も変わってくる、みたいな。
音の場に包まれて、生で聴きたいです。
誰にとっての思い出なのか。
最初は思い出を共有しつつ関係が永続するのを期待する(いずれにせよ「共有」は幻想ですが)。
別れが来た後は?
振る側はともかく、振られる側は?
相手を自分の「思い出」にして大事に抱え続けたいのか?
自分が「思い出」になって相手の中に残ろうとあがくのか?
プレゼントというのは、当座、気を引くとか価値観において影響を与えたいとか、あるでしょうが、別れた後も自分の匂いをなんとかマーキングしようとする、ということがあるなら、ストーカー的気持ち悪さがあるなあ、と意地悪な考え方をしてしまいました。