日記2016年09月24日

組成に珪素を含むみたいな空気の満ちる中の、風景は沈殿物で、水平線上で奏される音楽はしかし、遥かな距離を渡って私の耳に届く頃にはすっかり変容して、雅楽なのか、カムイユカルなのかすら定かでない程です。

私が日本からはるばる旅をして、プラズマが太陽からはるばる旅をして、アイスランドの地で出会う、その神秘がオーロラの美しさの正体なのかな。

2つの純音が長い周期でうなって、ふっと消えて、また戻ってくる、その感じでしょうか?音が、広大無辺の時空の来歴を背負って、たまたま私の前に現れている、また大きな世界へ還ってゆく、そういうイメージが湧きました。

花火、万華鏡、雪の結晶、鍾乳石…原理は単純で、一般普遍で、でも変数の値の、ほんの僅かな揺らぎが、無限に多様な個別特殊のアウトプットを生む。ヒトの作為の造形の、永遠のお手本。

熊谷守一への私の勝手な先入観故か、「脱力」とは見えないです。寧ろ形をとってそこに在ることを辛うじて最後まで許された者の、本質の確かさとも次の瞬間には消え入る不確かさとも取れる、ぎりぎりの存在ぎりぎりの認識の「緊迫」かと。

ホーム・センター【home centre】〘名〙造形に溢れてることと、しかもその全てが機能美なことと、図鑑みたいに秩序立てられていることと、あと何より圧倒的な物量でしょうか。世の中を回している機能を網羅した、宇宙の見本、宇宙そのものです。

藤原道長が自らの栄華を、この後必ず欠けてゆく「望月」になぞらえて詠んだのにはかねがね違和感を覚えてる。無常への意識がその時点の道長にどの程度あったか。