(2015-07-21 記、に加筆)
ごく図式的にいって。
「一緒にいる」ことと「一緒にいない」こととの関係。
2択において、対称というのか、私は用語がよく判らないけれども、どちらが選ばれる可能性も同じくらいに見込まれる場合がある。
「Aさんと一緒にいる」ことと「Bさんと一緒にいる」こととのどちらを選ぶか、という場合。
「Aさんと一緒にいる」ことと「Aさんと一緒にいない」こととはこういう関係ではない。
「一緒にいる」とは、自分がここにいて、相手もここにいる、ものすごく特殊な状態。
「一緒にいない」とは、自分がここにいて、相手がここ以外のどこにいてもよい状態。
「一緒にいる」状態=低エントロピー状態を保つためには、大きなエネルギーを注がねばならない。
この状態を解消する、「一緒にいない」状態に移行する=散逸するのは、いとも簡単で、だからこそ「一緒にいたい」という気持ちは、殊更に、積極的に、強く、持つことになる。
アンケート結果などで、騙されたくないと思うのが、本来対称ではないことを対称であるかのように扱って世論を操作する意図。
ある法案に「賛成」というのと「反対」というのは、本当に対称の関係なのか。
賛成するのに要するエネルギーと反対するのに要するエネルギーとは、同じ大きさなのか。
各値が50%であることをもって「拮抗してる」と単純に言っていいのか。
など。
生物として、個体維持や種の保存のために備わった働きが、ヒトを苛みもする。
ヒトも物理法則の中にいるから、人混みの中で大切な人とはぐれもする。
私の中で、ヒトの受苦を、生物学やさらには物理学の理に照らせば当然だろ、と片付けてしまいたい欲求と、ヒトなればこその喜怒哀楽の機微に最大の価値を置きたい欲求と、両方があります。