(2015年7月16日、記)
前アカで書いたことですが。
「イギリスでは虹の色の数は赤黄緑青紫の5色」という一文を目にして、あれっ?と思ったのだった。
ほんらい赤から紫へ連続的に移り変わる虹の色を、むりやり7段階に押し込めたのは、他ならぬイギリス人ニュートンだからだ。
気になってググった。
「ニュートンが虹を7色と決めたからといって、イギリス社会一般で虹の色が7色だと統一されたわけではない」「(ニュートンが)虹を7色としたのは、当時、7が神聖な数と考えられていたからである。音楽のオクターブもドレミファソラシの7音からなる。ニュートンは美しい虹も7つの基本の色からできているとしたのである」(Wikipedia「虹」の項)
ではなぜ日本では7色とされてるのか。
「これは、ニュートンの虹の研究に由来する学校教育によるものである」(Wikipedia同項)
教科書は、子どもに興味の発端を提供するものとして意義がある。
そこを入り口にして、実際の「なま」の世界に目を開く。教科書の役割はほんらいこれに尽きる。
でも現実には、教科書がその見通しを遮断するように機能することの方が圧倒的に多いのだろうと思う。
教科書が世界として振る舞って、その中で完結してしまう。
本物の虹を自らよく観察することよりも 「虹は7色」という知識が先に来る。
本物を見る時もそう見てしまうとか、そういうものと納得してしまってもうはなからまったく見ることをしないとか。