プログレとして聴いてました①

(2015年12月15日、記)

 

 

雅楽が、初めて意識的に聴いた時から大好きで、プログレの一環として聴いてた。

 

 

邦楽一般に対しては、感情を聴き手に押し付けるイメージがあって、嫌いだった。

雅楽は、感情表現が、むしろ禁止されてて、別枠だった。

 

音としても、ピンク・フロイド「エコーズ」にプログレの極点の一つを見、バックで鳴ってる音響的エフェクト的ポルタメントの《軟体動物みたいなエロティシズム》にうっとりしてた耳にとって、そこから雅楽の音色や楽器法やオーケストレイションやタイム感へは、地続きだった。

 

プログレを聴きだすくらいだから、もともとロックやポップに取り込む要素を拡張してゆく指向が強く、邦楽を含む民族音楽へ進むのは当然の成り行きだった。

スタイルの斬新にびっくりすること、桃源郷に連れてゆかれる感、この2つの点で「エコーズ」と「越天楽」の機能は同じだった。

 

 

日本人としての「血」に訴える、というのとは、全く逆。

身の周りにコミュニティの音楽としての邦楽があったわけではないし親近感もない。

西洋発祥のクラシックからプログレと聴き進んだ「西洋の耳」の拡張の先にあった、雅楽

エスニックではなくエキゾティック。

 

 

雅楽はインターナショナルで、土着感が無い。私はそこに救われたのかも知れない。

世界最古のオーケストラ。

 

いっぱんに、オーケストラって、現代作曲語法の要求に沿って音色を取り揃えた「機能」の塊に見えるけど、各楽器は、発祥の地も背負ってる歴史もまちまちの他人同士で、それがまるでもとから一家族みたいにこの形に収まってる。

クレヨンの箱みたい。

各色は、原料の産地も、顔料として流通や製造法が確立した歴史も、まちまちで、それがこうして1つの箱に収まって「機能」として並んでる。

抽象度最大の佇まい。

 

 

自分の中に帰ってゆくのか外へ拡張するのか、で思うのは、私が半獣神の午後の「MIZUUMI」「BETH」「熱海 nekkai」(CD『初恋』所収)を聴いた時に持った感想。

「こんな音楽聴いたことない」と、「これこそ私の聴きたかった音楽だ」との、相矛盾する思いに、同時に襲われたのだった。

プログレ聴くのは、煎じ詰めれば、こういう感想を持ちたいが為なんだと思う。