そのものそのもの

(2015年7月3日、記)

 

(お題に一言ボケて byアメーバ大喜利)

 

壁は光=視線や物の移動を遮る。

四方を壁で囲った空間を部屋という。

なんのために空間を周りから遮断するか。

物を隠すため、他人にアプローチさせないため。秘密の行為を人の目に触れさせないため。

 

価値のあるものを他人の略奪から守るために部屋はある。

四方を頑丈な大理石で囲って密閉するのが最も完璧な防備である。

しかし、守るものであると同時に、時々は取り出して使うものを、価値のあるものと呼ぶのだ。

取り出しのたびに壁の一部を破壊するのは、手間である。

 

壁の一部を取り払い、壁よりは取り除けやすい、乃ちセキュリティの堅さでは壁に劣るが、取り出しの手間とのトレードオフで設えられるのが、ドアだ。

 

下の大喜利のお題の写真は、奇異に見える。何故か?

何の変哲もない、ごくありふれたドアじゃないか。

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ドアは、存在を始めた原初から、壁を、部屋を、そこにしまわれた価値ある何ものかを、前提としていた。

ドアそのものの形状や動作に変わりがなくとも、置かれた環境が、ドアから機能を奪う。

 

この写真に、奇異と同時にわれわれは否応なしに「美」を感じる。

機能から解放された純粋な存在、そのものそのものが、そこにあるからだ。

 

かつてここに部屋があって、何かの経緯でドアだけが残ったのか(ドアもいずれ消えるのか)。

ドアを手始めに、ここに部屋が作られ、何かが守られるのか。

もしドアだけが作られたのなら、それはドアではない。芸術だ。

 

 

ついでに、同様に気になるものに「穴」がある。

穴って何だろう?

その空間自体は同じ物でも、周りを壁で囲まれることによって、つまり置かれた環境のせいで、穴と呼ばれるようになる。

 

 

(ボケの「純粋存在」というのはブログ共有のために咄嗟に書いたので、評価対象たり得ません。もちろんお座布は不要です。)