(2015年6月16日、記)
身も蓋もないまでにクリアな文章家の知り合いが昔、珍しく謎めいたメールをくれて、印象に残った。
以下。
問題は、私の耳は何のためについてるのか、だ。
かつて、森のスキゾな環境の中でそばだてられていた私の耳が、むしろなるべく耳を使わずに済むようにお膳立てされた社会の中でどうしても聴かねばならないものは、「イチ」と「シチ」と「ハチ」の違いだけであろう。え?「ヒチ」?
手持ち無沙汰の微細な聴覚のためには音楽がある。こうしてわれわれは安んじて飼い殺しにされることができる。
問題は、私は森へ帰るべきなのか、聴覚を音楽で慰めつつ持ち越して、耳をそばだてるべき新たな地平があるのか、だ。
以上。
「いのち・自然・必要」と「文化・制度・欲望」の対立の図式。
ピュシスとノモス。
がんらい「いのち」を生きるために備わった機能を、「文化」を生き始めた中で如何にカナライズするか。
話変わって。
手段と目的の逆転。
正確に、生き生きと、考え、新たに考え直すためにでなければ、いったい何のために言葉を発するのか。
編み出された当初は言い得て妙だったターム。
逆にそのタームを持ち出せるケースをいたずらに探し始める者が現れる現象に名前を付けたい*1。
タームを持ち出すことによって、考えることを放棄する現象。
こういう、自前で切実に言うべきことを抱えてない者にも備わる性急な「意欲」は、カナライズに失敗してはいるものの、がんらいは生物「ヒト」が生きるためのなにがしかの「機能」なんだろうか。
*1:追記 2020年10月26日
「青菜」でいいんじゃないか?