(2015年8月19日、記)
バリのガムランは合奏である。
世界には、モンゴルのノロブバンザドのオルティンドーや、タンザニアのフクエ・ザウォセのゼゼ・カンバ・クミ弾き語りみたいな、ソロ超絶技巧もあるが、ガムランのびっくりの本質は「アンサンブル力」だ。
1本のメロディの、奇数番目のノートを奏者Aが、偶数番目のノートを奏者Bが、交互に奏する。
まるで1人で演奏してるみたいになめらかな1本のメロディが現れる。
「まるで1人で演奏してるみたいに」。
ものすごく速いメロがあって、1人の手に負えない時、2人で手分けすれば1人当たりの負担を半分にできるか?
否である、もちろん。
テンポやタイム感に加え、フレーズ感も、つまり1つの音楽を、2人で完全に正確に共有せねばならない。
バリの共同体が、音楽に重きを置き、生まれた時からその中にどっぷりと浸かって身に染みてること、そしてそれを共同体構成員が共有してること。
ガムランという1つの楽器を、共同体という1つの意思が操作して、1つの音楽を生む。
コテカンは、こういう音楽の共有の土壌から生まれる発想だ。
音楽を合奏するのには、前提として、人と人としての「信頼」が必要なのかな?ということを、柄にもなく思ってみる。
仮に、全く1人で音楽のトレーニングを積んで、例えばタイム感をドンカマ相手にクロック単位(例えば384分音符単位)で習得した者が2人いたとして、彼らのコテカンと、バリ島民2人のコテカンとは、同じものだろうか?
演奏の精度において、正確さも、グルーヴも、フレーズのなめらかさも、同じだとして、これら2つは、質的に同じ音楽か?
音楽という結果物を、それを目的とみるか、「信頼」そのものが重要で、音楽はその指標とみるか、のちがい、とか。
あと、私は、グンデルの、1音毎にミュートして、余韻を次の音に絶対に重ねない、常にゲイトタイムが正確に100%の奏法が、大好きだ。
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