(2016年6月30日、記)
音楽が音楽そのものであることを貫きつつ、なおかつ政治と有機的に結び合えるのなら、ステキなことだと思いますよ。
例えば西洋音楽の立場で民族音楽を取り入れる時、エキゾチックなテイストとしてくすねて来ることはしない、という態度は政治だ。
音楽そのものの在り方を考えること即政治、という例だ。
先達ての「音楽に政治を持ち込むな」論争においては終始一貫、音楽そのものが素通りされていた。
私にとっては音楽≒作曲だから世間と話がズレるのかもな、とは思ってる。
過去、こんな政治的テーマを持つ音楽が書かれたとか、こんな政治的フェスがあったとか列挙することによって、音楽と政治とが関わってきたことの証左とする者が多かった。
いや、だから、それを以て音楽と政治が関わったとは言わないんだよ、って言ってるんだよ。
音楽には音楽の自律がある。
ドがレに進むのに右も左も無い。
音楽が政治的なり何なりのメッセージを乗っけて運ぶ道具に堕してはならない。
音楽作品の価値は、テーマが政治的であるかないか、メッセージを運ぶ機能に優れてるかどうか、とは関わりがない。
政治は言葉だ。
歌詞なりアジテイションなりの言葉に音楽を並置することで、言葉がより印象強く伝わる、ということがあるのだとして。
それは、言葉がより正確に伝わる、ということではない。
むしろ聴衆を騙すことだ。
一時の昂揚を以て聴衆を扇動洗脳する、そんなファシズムに与するのが音楽の政治的役割なのか?
まっぴらだ。
左の言葉に併置される音楽、その同じ音楽が、右の言葉に併置されれば、右の音楽になる。
音楽と政治の関係なんて、論じようがあるまい?
音楽が政治の価値を高めることはない。同時に、政治が音楽の価値を高めることはない。
わたし的最重要バンド、ヘンリー・カウは、イタリア共産党のフェスティヴァルに参加した。
でも、政治フェスに参加することを以て、曲自体の価値が上がりも下がりもしない。
彼らの音楽と政治の関係についての考えを学ばねばならないが、彼らの考えが私の考えになることは無い。
メシアンの「時の終わりのための四重奏曲」を、もし、収容所で書かれたから価値がある、と評価するなら、メシアンの音楽への冒涜だ。
私は音楽の「不可能性」に苛まれるところからスタートした。
音楽が世の中の役に立たないことへの後ろめたさから、音楽の根拠づけを音楽以外のものに求め、その都度挫折する時期が続いた。
政治に捻じ込んで居場所を求めることも、もちろん、あった。
それがある時転換して、音楽は音楽の自律・純粋ゆえに貴いのだ、と思うようになったきっかけついては、以前当ブログで、平沢進の「音楽なのになんでかな」の一語に象徴させて書いた。
私は一人の人として政治的に在る。
有体に言ってサヨクだ。
でも私の音楽をサヨクの音楽に仕立てることを企てはしない。
それは嘘をつくことだからだ。
ぎゃくに、サヨクである私がやる音楽は、自然に、すべて、サヨクの音楽であるのだ、という寝言も言わない。
私なんでこんなあたりまえすぎることを改めて書いてるんだろう。
確かなのは、右の音楽家と左の音楽家は政治的立場を超えて音楽仲間であり得るだろうが、私はそのどちらとも仲間になり得ないことだ。