Tom Verlaine をめぐってメモ

「ブルースベースを感じさせないロックギタリストが好きなんだけど、トムヴァーレインもキースレヴィンも自分にとってはそういう存在」という御ツイートをお見掛けして、アメブロでの拙過去記事を思い出した。

ブルーズ・ギターが神髄の Mick Taylor が、なぜ The Rolling Stones の 'Time Waits For No One' で、あの、完全にダイアトニックなソロを弾いたのか?という記事(答えは出していません)。

で、この記事のコメント欄でやり取りをする中で、私は

「これをもっと鋭角的にしたらトム・ヴァーレインになる」

と書いてたのだった。

つまりは、ダイアトニックで、ブルーズ由来を感じさせない、という点がそう思わせたんだろう。

 

Tom Verlaine というとどうしても、初期ロックマガジンでの表記がトム・「ヴァーライン」なのを思い併せてしまう。ロックマガジンの表記のデタラメさをバカにしがちだし、じっさい阿木譲の英語のセンスはかなり危なっかしいけど、ほかのメディアに先駆けて情報を取ってきて最初に日本に紹介し最初に呼称し最初にカナ表記する、というケースも多かっただろうから、むしろ武勲だ。

 

関連記事:

Perfume 'VOICE'

スーパーの店内放送のインスト曲が Perfume 'VOICE' だった。

珍しい、と思ってしまった。シングル曲なのだし、めちゃめちゃに売れた曲のようだから、掛かって不思議はないのだけど、私自身は10年位前にテレ東のフィラー*1で聴いたことがあるだけだった。

嬉しくなって一緒に口ずさんでしまった。

 

とにかく MV が大好き。CG を一切使ってない。こういう、大道具さん大活躍の、アナログの手作り感に反応してしまう私。

1'13" 目と 2'40" 目の、楽節終わりのスネア一発のアクセントに、「くっつけた両掌を瞬発的に引き離す」という振り付けをするのが、天才!と思った。

 

追記的関連記事:

*1:正式名称「オールナイトミュージック」というのか。

下書き放出(行動の強さすなわち思いの強さではない)

視点①

対バン合同の打ち上げで、バンマス(♂)が、運ばれてきた料理を前に、手を合わせて「いただきます」という。

対バンのとあるメンバーがそれを見てクスクスと笑い出す。

 

たぶんあちらからは、ロックにあるまじき「良い子ちゃん」に見えた。学校側の管理に自ら進んで嵌るような。「いただきます」=「しつけられてる」と思ってる。

 

たしかにロックすなわち権威を笑い飛ばすことだ。ただ、「いただきます」を嗤うのは間違ってる。「いただきます」はお行儀の言葉ではない。「いのち」への感謝の言葉だ。

生かされてあること、いのちへの想像力の欠如、「わたし」と「世界」との関係が見えないことこそ、ロックから最も遠い。

 

視点②

ロックは若者の音楽、子どもの思想。それは「やみくも」でなければならない。

ロックは批評精神だが、その矛先は何なのか。「世の中の不正義を糾す」とかもあるだろうけど、若者ってもっと鬱屈してる。ヒトとしてあることのどうしようもなく救われない不条理。

得体が知れないのに執拗な、生の不快感。ヒトであることへの根源的な居心地の悪さ。

「不正義を糾弾」といっても、ヒトである以上誰も「純粋批判者」ではあれない。自分を正義の側に置くことこそイデオロギーであり欺瞞である。

やみくもでなければならない。露悪的でなければならない。田山たかしは XTC フリークでなければならない。

「生かされてある」、摂理を離れてヒトは生きられない、といっても、だからこそ、私のいのちをカタに取って服従を迫る摂理を呪いもする。

音楽はいのちに至る方法ではなく、いたずらに音楽にかかずらうことはいのちへの反逆なのだと、よくよく自覚せねばならない。

対バンのメンバー氏の冷笑は、あるいはこの「自覚」に基づくものだったのかも知れない。

 

視点③

行動の強さすなわち思いの強さではない。

私はサヨクの立場を取る。でも、ヒトが本来そういうものだからではない。放っておくとヒトはプロパガンダに流されてしまうものだから、それへの抵抗は全力にならざるを得ないのだ。

デマの流布はたやすく、速く、規模が大きい。その修正は手間が掛かり、効果が小さい。