イヤーワーム

先日の Spirit 'Taurus' の記事で、当初誤って Taurus 'Spirit' としていました。すみません。

「JOHNSON の演奏で『俺はこんなもんじゃない』です」

を素で行ってしまいました。

私が 俺はこんなもんじゃない / OWKMJ をプログレと見做すのは、ユーロ・ロック・プレスのディスク・レヴューで知ったバンドだからです。

 

さて、脳内で鳴り出した2小節。

出典が判明したら書くつもりだったのですが、思い出せないので、【おたずね】【極ゆる募】の記事にすることにしました。

曲途中の4小節の長さの楽節の、3~4小節目(「3」と書き込んだのは「ここが3小節目です」の意ですが、判りづらかったです)。

「だいたいこんな感じ」というところまでしか判りません。正確な音程関係も、キーも不明。

たぶんプログレで、クラシック的にかっちり構築された曲、かも?? この声部はあまり高音じゃない気がするので、手厚くアレンジされた中の内声の動き、かも知れません。

この箇所はインスト。

モデラート。

楽節の4小節目(譜例の2小節目)のファは♮です。

f:id:shinkai6501:20211126034525p:plain

ふだんよく聴いてる曲の筈なのですが、思い出せません。本当に極極ゆるくゆるく、おたずねいたします。

メモ(マス・ロック)

「2オクターヴは24フレットで正しいんだっけ?」と一瞬迷ってしまった。

「度数」の感覚のせいだ。同度を0度といわず1度という、不合理。

 

何故こうなんだろう?

もしかして、西洋の数学が「0」について臆することなく考えるようになったのが、インド数学が発明した位取り記数法をアラビア経由で導入してからのことで、西洋音楽理論における「度」はそれ以前に決まった、とか??

素人なので怖さを知らずに書くと、古代ギリシャは 0 の概念を「知らなかった」というより「数学に持ち込むことを躊躇した」んだっけ? 「マイナス」の概念はあったんだよね?

 

前提というか消極的な理由として、「度」はインターヴァル=「差」を考えるものだから、というのはあるのかな? 周波数みたいに、最小値が 0 である「比」の発想のほうが、合理的にやれそう。

 

音楽と数学というと、ケプラーが惑星の運動の法則を説明できたのは音楽を本気で援用したからだ、みたいな言い方を読んだことがある。記憶はこの上なく曖昧です。

フラクタル音楽」というタームは聞いたことがある。実作は聴いたことがない。コンピュータなしには不可能なんだろうと想像する。クセナキスの確率論なんかもコンピュータ前提なんだろう、たぶん。

 

「マス・ロック」に明るくないので、どのくらい mathematical なものなのか知らない。

The Season Standard はマス・ロックですか?

ベルリンのバンドという認識だったけど、もともとはドレスデンで結成されたらしい。

Spirit 'Taurus'

Deep Purple 'Child In Time' が It's A Beautiful Day 'Bombay Calling' からの引用なことと、当時の「楽曲が権利を超えてみんなのものだった」ロック・シーンのありようの例のいろいろ、をご教示頂いて、思ったこと。

 

ある楽想を曲の形に紡いでゆくということは、その楽想の展開の可能性のうちのひとつを選んで辿るということで、引用、'Child In Time' のようなやり方でのそれは、そこで捨象されたいろんな可能性をサルベージする、もうひとつの世界線を示す、ということなのだ、ということを思いました。

 

パクられるのは名誉、と思います。「パクる・パクられる」という言葉を使うあいだはまだ、曲を所有物と見做してることになってしまいますが。

学術論文は引用されてナンボ、と聞いたことがあるので、音楽シーンもそういう在り方で豊かになってゆくとよいと、理想論として思います。

 

去年3月「'Stairway To Heaven' 盗作訴訟で Zep 側勝訴」が報じられた際、パクり元とされた曲、Spirit の 'Taurus' を初めて知りました。

作品としての完成度というのと別に、聴く者のイマジネイションを刺戟してくる音楽だ、と思いました。

件のコード進行から開ける視野の一例を、それに続く箇所の楽想が、きっちり形にして示してるし、聴く者がイマジネイションを拓くためのヒントとしての力もある。

これが当時の感想です。

 

このケースでは訴訟になってるわけですから、「権利を超えてみんなのもの」とは別の例ですが。

もともと私は 'Stairway To Heaven' という曲がピンと来ていません。外枠としての楽節ありきで形を整えその中に閉じている。その帰結として、徒に長い。展開が、本当に音楽的であるよりは、何か文学的な発想から来てるのでしょうか?

'Taurus' のほうが音楽の大事な瞬間、純粋にコンポジション的な出来事を提示し得てると思います。和声が内側から自らを編んでゆく。和声のアイデアが、それ自体として目覚ましいと同時に、象徴的に和声の可能性に向かって開かれている。わたし的にはこちらの方が重要な音楽です。

 

関連記事: