鈴木美夏さんのピアノ音楽

鈴木美夏さん(みかちゅう @SoundMika)のピアノ・ソロのアルバム。

静謐な音の森のなか歩みを進めるみたいに、次から次へと透き通った音の出来事が現れるの。

一瞬一瞬が瑞々しい。私はやっぱりディテイルとニュアンスの音楽に包まれる時が心地良いんだ。

強弱(奥行き)の作り方が、敏感で、美しい。

 

本当に心地良くて、びっくりしたんです。これは「既成のタグとしての〈リラクゼイション〉〈ヒーリング〉に標準化されたもの」じゃない。どこまでも鈴木美夏さんの世界としてあって、どの瞬間も、敏感に聴き取られ、丁寧に磨かれて、なおかつ私はその世界の中に身を置いて何の強迫も感じず自然でいられる。私が〈リラックスしつつも能動的に〉音の出来事を発見してゆける。森のなか歩みを進めるみたいに。

ぶっちゃけ私は今まで〈リラクゼイション〉〈ヒーリング〉とタグ付けられたものを軽視してた。でもじっさい聴いたらこんなに好きだった。カテゴリーに基づく先入観を、このアルバムが崩してくれた、このことにも感謝です。

 

そして鈴木美夏さんの最新リリース。さらに純度が上がった?

 

関連記事。旧姓で、石井美夏さん。

ふくしひとみ さん ②

演奏なさっているのは、ふくしひとみさん。

私がびっくりしたのは、タンバリンの「付点」。ペダルを「上げる」タイミングをコントロールする、という発想は無かった。ハイハットは踏み込みでだけ鳴るけど、乗っけたタンバリンはペダルを上げることでも鳴らせるわけか。

 

私が最初に知ったふくしさんは、この御ツイートだった:

これを見た時の私の感情は「嫉妬」だった。

さいきん更にスキルを上げていらっしゃる:

 

アーティストを発見してファンになる、出合頭の感情が「嫉妬」の場合とそうじゃない場合がある。なぜ差が生まれるのか考えてるけど判らない。その人と私の路線や発想がどのくらい被ってるかが関係するだろうし、才能にどのくらい開きがあるかが関係するだろう。

けど、まず、「私が今この路線でやってるということは、そのためにそれ以外の可能性を捨ててきたということだ」というのが前提にあってのことな気がする。

私にはとても思い付けないド外れたアイデアに対しても嫉妬はするし、ふくしさんへの嫉妬はまさにこれだが、これは「ひれ伏す」ことで解決する。もうひとつ、「その手は卑怯!」と思ってたのがじつは「でも正しい」と改心を迫られる時の感情こそ、最も大きな嫉妬なのだ。

私が、意識的に「やっても面白くないし、発展性もない」と断定して取り組まなかったアイデアや、いつの間にか忘れ去っていたアイデアを、他人が使って、しかも見事に創造を展開してるのを見せられた時の、自らの迂闊への悔やみ臍噛み、これが嫉妬の感情だ。

 

ふくしさんについては、土台にクラシック音楽の豊かで確実な素養があるのだけど、大事なのは、これがほんとうの「創造」のために「生きている」こと。

「及川音楽事務所にもこんなクリエイティヴな方がいらっしゃるんだ!」と口走っておく。

タイトル付け

知人の曲のタイトルに 'Blocks & Clay' というのがあった。中国の民族音楽風だったので、私は当初、石材と粘土で造られた建物群、中国の田舎の風景を描く「標題楽」なのかなと思った。

 

あとから知った。原題は「ブロック遊びと粘土遊び」で、英語のタイトルは営業の必要から直訳したものだった。

作曲における発想と作業が「音符単位かクロック単位か」「ディジタルかアナログか」、を言い表すタイトルなのだった。

つまり、A-B-A 形式の、

A が YMOファイアークラッカー」かラヴェル「パゴダの女王レドロネット」みたいに拍節的、

B が緩やかな二胡ソロで、拍的にも音程的にも連続的だし揺らいでる(センツァ・テンポとポルタメント)。

 

タイトル付け斯くあるべし。

「中国風」ということからゆけば、標題楽的に、曲が喚起しそうな視覚イメージや文物、「頤和園」とか「下放」とか、をタイトルにしそうなところ、これを拒む。音楽の純粋・自律を重んじるため。

「作曲における発想と作業」ということからゆけば、これをコンセプチュアルに提示するのもアリだが、この曲は聴感上「通俗名曲」風に楽しい体裁である。剥き出しのコンセプトではなく「作品」になり切っている。

この曲にこのタイトル、の妙味。

 

'Blocks & Clay' は、直訳の産物であるにかかわらず、可算名詞の複数形と不可算名詞が並んでいるのが意味深い。