いしむらなおがひとりぼっちでぼうけんする演劇『塗る』『五月二十四日』 #いしむらなおのぼうけん

https://www.youtube.com/watch?v=lydDeJl9zQc

 

私が最後に演劇を「生で」観たのはもう何年も前。

いま演劇が不可能になってる、演劇が演劇でいられない、という状況が私に本当にはピンと来ないのは、ひきこもりの私にとって演劇はもともとメディアを通して観るものだったから。私が観ていたのは、演劇そのものではなく、その「情報」に過ぎない、のだろう。

 

今回拝見した いしむらなお氏の『塗る』『五月二十四日』は YouTube での配信で、観客から役者へ反応を送る方法はチャットしかない。

もしも、もっと濃密で反応の速い相互行為のツールがあれば演劇が再生するのか?あるいはやはり生身の人間どうしが空間を共有するのでなければ演劇ではないのか?

 

まして私は今回アーカイヴで拝見した。でも感動した。ぼろぼろに泣けた。

泣けた理由は自分でも判らない。一日たった今も、考えを整理できない、言語化出来ないけど、とにかく言葉がこんなにも生き物なのだ、ということに、押し寄せられ、打ちのめされた。

生で観、反応を返し、「場」を成立させることに観客の私も参画するのが本来で、配信はその代替物…という感想を私が抱き得ないのは、前述の理由もあるけどそれよりももっと、現にこんなに感動したから。

 

「芝居にバイバイ」と、それを芝居として演じることとの関係がスリリングだった。

 

すみません。ここまでしか言葉に出来ませんが、取り急ぎ。

夢 2020年05月14日

断崖に張り付くように設置された滑り台を降りる。水が流れてるのでウォータースライダー。

競技のようでもあり、このコースを抜けてどこかへ抜ける、次の場面へ進もうとしてるようでもある。

競技としては、水泳競技に分類されるのか。鈍色の金属でできた、直線で、垂直に近い傾斜、全長=落差10メートルくらいの、ヒト一人分の幅のコース×3が選手1人に割り当てられ、3人で競う。つまり9つのコースが横並びになってる。コースにある障害物を取り除くとか、ポイントを獲得するとかして、少しずつ降りる。私はそれを正面から見てて、いちばん右端のコースに障害物としてあるウィンナーのかけらを取り除く。でも同時に私自身は真ん中のコースの選手でもある。

「で、結局どうなったら勝ちなの?」いちばん下まで滑り降りることはできる。でもそれが勝ち、ではないし、楽しめる要素も無い。コース途中に楽しい抜け道があるのでもない。バカバカしくなってクイットする。私は国の代表だけど、知るもんか。コース頂上の裏手に3畳分くらいの空間がある。四方を高さ2メートルの岩壁で囲まれ、真ん中に岩がでんとあるけど、岩の裏側に回り込むと天井が開いてて、壁を乗り越えて外に出る。

置いておいた掛布団が持ち去られずにあったのは奇跡だ。丘が連なる地形の広大な芝生の公園の、谷筋に舗装道路。「今日は路上で寝て怒られました。昨日は〇〇で寝て怒られました」歩くが、目的地はどこなのか?丘の上にある飲食店の保有する、在庫あるいは何かの権利のうち、何割かは昨日からの持ち越しあるいは一般からの寄付で、それが何かの正当性の保証であるらしい。

#安倍はやめろ

ツイッターハッシュタグ「#検察庁法改正案に抗議します」をタイトルにしていましたが、この記事を書いたきっかけがこのハッシュタグを含む御ツイートだからというだけの理由でした。法案への抗議とこの記事内容は切り分けねばならず、不適当なので、改題しました。

 

 

画像にあるもうひとつの「ゲームをするなら必ずのび太に勝たせる法案」も、私が安倍についてずっと思って来たことそのままだ。

きっと子どもの頃からルールに従っては勝つことが出来なくて、そこでズルをしたりルールの方を変えたりして勝って来てて、それを出来ちゃう立場にいて、首相の座に就くところまで来ちゃった人なんだろうなあと。

遂にゲームを「楽しむ」ということが無かった人。ゲームを「楽しむ能力」を培う機会を持てなかった人。

 

私は普段は、憎い相手を消す時には、じっくり苦しめて、こっちが憎んでることを思い知らせてからにするのだけど、安倍に関しては、とにかく即刻取りのけたい。消えてくれればいい。

 

敵同士であっても、ある価値が共有されてる、言葉が通じるという「信頼関係」が前提にある場合には、勝ち方負け方がある。

安倍に対してはすべての言葉が「徒労」に終わる。オトシマエを付けさせる手段を、別に講じなければならない。私たちが力を結集できることは、デモで証明済みだ。