メモ(キュビスム)

キュビスムは、主体が見た客体を描いてる、のではなく、主体が「見る」とはどういうことなのか、を絵にして見せてる。

私はお勉強をしない人なので、以下に述べることが、見当外れなのか、ぎゃくに既に論じ尽くされてることなのか、判らない。

 

対象を3次元の立体として見るとはどういうことか。

目の前のオブジェについての、ヒトの視覚の齎す情報は、2次元である。別角度からの情報も、2次元である。オブジェの周りを一周しても、2次元の情報が積み重なるだけである。

である筈なのに、なぜ、どうやって、ヒトはそれを3次元の立体と認識するのか。2次元の情報を積み上げて3次元にインテグレイトする「概念」の力。少なくともそこには「時間」が関わってる。

もしヒトが「概念」越しにではなくものを「あるがまま」に見ることが出来たら、その様相はリアリズム絵画よりもキュビスム絵画に近い筈である。

キュビスム彫刻」というのもあるらしいけど、理論として無理である、あるいは「キュビスム絵画」とは全く別物の筈である。

 

キュビスムを、シュルレアリスムとの対比で、より「理知的」と評して、セザンヌを源流と見做したりするようだけど、理詰めであそこに到達は出来ない。

ヒトは「概念」でものを見ることから逃れられない。オブジェを、後ろに回り込むまでもなく一方向から見ただけで、立体と見てしまう。光の当たる方向とか、諸々の情報によって(しばしば誤認するけど)。リアリズムの絵画作品は2次元の情報で3次元を偽装してるわけだから、すべて「だまし絵」である。

その「概念」を外すことが出来るのは、薬物の力だけなんじゃないか。

私はキュビスムの画家たちが薬物を使ったか知らないし、私自身が薬物を使ったことがないのでその効果を知らないから、完全な当てずっぽうなんだけど。

 

キュビスム音楽」があり得ない、雰囲気がキュビスムっぽいとかじゃない理論としてキュビスムの音楽があり得ないのは、もともと音楽が「時間芸術」だから。

作曲がキュビスムからパクれる点があるとすれば、「ヒト主体が『聴く』とはどういうことか」を作品にして見せる、という一点だ。

主題が再現する時、聴き手がそれを再現であると思うのは、最初の提示を思い出してるからである。このように、聴き手の中で起きてる時間進行は、外的客観的「曲進行」そのままではない。

これを曲にして見せるには、オリジナルを一から書くより、既存の、よく知られた曲を素材に使うほうが判りやすい。「皆様よくご存じの『ベト5』は、キュビスム的に処理するとこうなります」という示し方。