メモ(ネルヴァル『オーレリア』)

篠田知和基も書いていたように、ネルヴァルは「編集的創作」の超名人なのだ。これをたんに「狂気の沙汰」とは、もはや名付けられまい。名付けてもいけない」

「書きなぐりではないことはあきらかだ。エレメンタルにもフォーマティブにも、よくできている」

伊香保の夜の3読目では、そんな“危険の風”すらもがそよりとも吹かなかったのだ。夢二が描いた『青山河』のように、榻(しじま)がすうっと通過していっただけだった」「そうなのである。『オーレリア』は、どこもおかしくはない。ぼくは何も擾乱されず、どんな不安にも襲われず、ひたすら上出来の物語を読んだ気分になれたのだ。ここでは、作者と物語と登場人物がまったく乖離していなかったのだ」

「ここにはカンペキな文学技法があるばかりだ」

カバラが出てこようと、たくさんの月が上がっていようと、鳥や庭のメタファーがみごとに異常化されていようと、それはネルヴァルの64技法のひとつだと見たほうがいいわけなのである。それも、狂気による成果ではなく、文学で夢を見る方法だとみなすべきなのだ」