以前の記事で、私がプログレを聴きだすについては、それに先立ってその下地となる経験があったのではないか、といいかけて、
現実空間の中での音の振舞いを面白がる体験
についてだけ書いた。
いっぽうで、CD などの形を取る作品のほうに音楽的原体験を探ると、ざっくりいってプログレ以前に私はクラシックを聴いてた。
ラヴェルの『子どもと魔法』『マ・メール・ロア(組曲かつオーケストラ版)』、ストラヴィンスキー『ペトルーシカ』など。チャイコフスキーは好きでなくとも「金平糖の踊り」は大事な曲。
その中にドビュッシー『聖セバスティアンの殉教』があった。とくに↑に貼った「第3幕 異教の神の宗教会議」の、7'45" 目~ 9'00" 目の合唱。
私にとってこれがどう重要かというと。
これは、たんに「作品、アウトプット」として完結するにとどまらず、そこから音楽が生まれ出てくる、萌芽、可能性の塊、奥義そのもの、なのだ。
これを聴き手として鑑賞し消費するだけでなく、楽想として固定したものとは別の「クリエイティヴな状態」を思い出す。ということはそれはふだん忘れられている。この曲のこの箇所は、私自身が音楽の象徴の力で何かを言い当てようと試行錯誤するときここに立ち返る、拠り処なのだ。
やり方についての、セオリーではなく、示唆。
いっぱんに音楽を聴くってそういうことなんだろうけど、とくにプログレを聴くって、「作品を鑑賞する」ことに閉じて固まって「刺戟され可能性に開かれた感覚の状態でいる」ことを忘れたら、もうそれはプログレじゃないんだと思う。
「プログレであること」って、聴き方、聴き手の姿勢、だと思う。「プログレなヒトが聴く対象がプログレ」と定義してよい。
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