当り前のことだけど、作曲は、音符単位でのオペレーションに還元されるものではない。和声とか対位法とかと同様に、「音色」にも構造があり、それは耳を澄ます対象であり、作曲の要素だ。
ただ、問題なのは、作曲態度だ。音符操作の技法の拙劣をカヴァーするために音色の力に頼る、ということがあってはならない。
「楽器名を指定する」「奏法を指示する」のは作曲であるとしても、「音色の美しい名演奏家によって演奏されることによって曲が立派に聴こえる」のは「作曲の力」じゃない、というようなこと。
メロトロンの音色を、オーケストレイション上必然の箇所に置くことはいいけど、「メロトロン使ってます」をウリにしてはいけない、というようなこと。
「エフェクト」もそう。むかし、ある人と打込み作業について話してて、彼女が
「エフェクトは『ごまかし』なのであまり使いたくない」
と言うのに、私も気持ちとして賛成しながら、
「プリセットをそのまま使うのは『ごまかし』かもだけど、エフェクトのパラメータを把握して、意識のコントロール下に置いてカスタマイズすれば、それは『作曲』だと思う」
と答えた。
「だいいち『生楽器の音で勝負する』は有り得ても『エフェクトを掛けないPCM音源の音で勝負する』はありえないでしょ」
とも付け加えた。
前回 Jan Steele 'Distant Saxophones' についての私見の中で
遠くから届いてくる音は美しい
長い距離を渡ってくる間にいろんなエフェクトを受けて、変調されて
と書いた。これは
元のサックス音の美しさとは別の、それ以外の要素の美しさの比重が大きい、そもそも元がサックスなのかどうかすら判別しづらい、判別することにあまり大きな意味がない、という状況
聴覚のセンシティヴィティが問われるケース、音そのものに対して、概念越しにでなく、感覚で向き合う局面
のことだ。
作曲が「耳を澄ますこと」から離れた「操作」に閉じてはならない。
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