先日の2記事の再編集です。
①
私は言葉の人じゃないくせに、記事を言葉だけで成立させようとする。
画像は(それ自体が記事の主題である場合を除いて)貼らない。
絵文字顔文字は使わない。
言葉が、それ自体の力で、言うべきことを言い得てる時、画像、絵文字顔文字は、ノイズでしかない。
まあこれは私の極私的で依怙地なこだわりだし、問題は、使うにしても、それが方法としてどこまで「意識的」であるか、なわけですが。
ユーモアについて。
アメーバ大喜利で、ボケが面白くても、末尾に「!」とか「▯*1」とかが添えられてるものには金輪際座布団をやらなかった。そういうものはたいていボケ自体もつまらなかったが。
なぜボケ自体のクォリティで勝負しないのか?「!」「▯」を付けることで、つまらないボケがつまらなくなくなると思ってるのか?
上方の漫才コンビはなぜ「どーもーーー!」と叫びながら登場するのか?
落語は、噺の内容に耳を傾ければそれが面白いのは判るのだから、語り口調に「さあいま面白いこと語ってますよ」アピールは要らない。
「内容」とその「提示のしかた」、2つのレヴェルを、弁えるか、ごっちゃにするか。
しぎ・チドリ氏がルパン三世について論じていらっしゃるのを拝読して、「青いルパン」と「赤いルパン」の差って、上述の「弁えるか、ごっちゃにするか」の差の適例だ、と思った。
「ルパン三世」のアニメは第1期が面白い、ということは聞いていた。それは「青いルパン」。
私の関心はひとえに「ユーモア」にあるわけだが、その点で「赤いルパン」がつまらないのは、内容自体がすべってるから、ということのほかに、その「提示のしかた」がかっこ悪いから、ということがあると思う。
大野雄二による音楽の「強迫的なアピール」もその線に沿ってる。
「青いルパン」の、アンニュイな世界をポンと提示して、あとは視聴者の積極性と理解力を信用しこれに委ねる、というスタンスは、対象としてほんとうの大人を想定してる。
追記始め
これだ!
そもそも漫才の「ボケとツッコミ」という型に違和感があるのだった。「ツッコミ」の存在は、観客のリテラシーを信用しない、という前提。演者=ボケ、観客=ツッコミ、というのが健全
— 新海智子 (@coccyx_T) 2016年6月27日
追記終わり
②
新書館は、1980年代に、アーサー・ラッカム Arthur Rackham、エドマンド・デュラック Edmund Dulac、カイ・ニールセン Kay Nielsen などの挿絵画家を起用した文学作品を多く翻訳、刊行してる。
本文のほうは、神話・伝説、シェイクスピアの戯曲から、同時代の小説までさまざまなので、挿絵のほうに焦点を当てたシリーズ企画ということだ。
ざっと調べたところ、「太陽の東・月の西〈北欧伝説〉」(カイ・ニールセン絵、岸田理生訳)が1979年3月で、最も早い部類だと思う。「真夏の夜の夢」(原作:W. シェイクスピア、絵:アーサー・ラッカム、訳:伊藤杏里)が1979年9月。
これらの挿絵画家を日本に紹介するのに大いに功績があったといっていいのだと思う。
ただ、「クリスマス・キャロル」(チャールズ・ディケンズ作/小池滋訳/アーサー・ラッカム絵、1985年11月)だけはいただけない。原作がユーモア小説であることを理由に、落語調の文体で翻訳してるのだ。
理由になってない。この小説のユーモアは、例えば新潮文庫での村岡花子のクソ真面目で硬苦しい文体でこそ活きるものだ。
どうでもいいことですが、私の SoundCloud でのアイコン
は、デュラック "Stories from Hans Christian Andersen" (1911) の1枚、'The Nightingale' のディテイルです。