Pink Floyd 'Echoes'
Eno 'Sky Saw'
Television 'The Dream's Dream'
この3曲の共通点は?
曲の長さに比してヴォーカルの出番が短いこと。
短いと言っても Tom Verlaine のヴォーカルのキャラは強烈だし、
'Sky Saw' では3声くらいでハモってるうえに、別歌詞の別メロを同時進行させる、という凝りよう。
プログレ聴き始めの頃、プログレ曲において、ヴォーカルをどう積極的に意味付け出来るか、思い悩んだ。
むろんプログレには、ヴォーカリストがヴォーカリストとして際立つバンドもあるが。
当時の私の音楽観を思い出してみる。
「音響」主体の作品は、摑みどころがない、このままで「音楽」の範疇に含めるには即物的に「音」そのものであり過ぎる、「作曲」の手続きを踏んでない、と感じた。
そう感じつつ、感動の「根っこ」になるべく即した状態であろうとする、表現の「真実」も感じた。
いっぽう、カデンツに随って組み立て進行させる「曲」らしい曲は、これに感動し、馴染み、その極点を PFM に見つつも、作為的な「わざとらしさ」を持て余した。
「音響」の「真実」と違って、これを「曲」の形にまとめる手続きが、直接性・同一性をハナから諦めてるというか、「嘘」というか、嘘であることについて正直であるというか。
だからこそ音楽たり得てるというか。
小6当時の思いを、今時点のボキャブラリーに、ものすごく翻訳してますが。
'Echoes' は、最初の1音で既に、向こう側に持って行かれる。
そして「音響」の斬新さ美しさに陶然となる。
でも、この曲の真価(当時の私が感じたそれ)は、そこからカデンツが立ち上がって来る、音楽がその源から湧いて「曲」の形を成す、という風情だ。
「音響」と「曲」を、乖離のまま併置する、のではなく。
このあり方でなら、「曲」の作為を許せる、と思わせる。
この曲では、あまっさえ、ヴォーカルがヴァースを歌い出す。
私の Pink Floyd 観は、作曲や演奏の技術を持ち併せながらも飽くまで、もっと根源的な表現を求める芸術家集団、同時に最先端のテクノロジーを駆使するエンジニア集団、だった。
その、Jon Anderson や Peter Gabriel 的な意味での「ヴォーカリスト」ではない彼らが、仕方なく自前で歌ってる、みたいな風情が、最高にかっこいい、と思った。
この曲にヴォーカル要るか?と思ってもよさそうなところを、このヴォーカルパート必須!と私をして思わしめたのは、この、ヴォーカルとしての自己主張の無さ、だった。
音楽の一環としてのヴォーカル。「歌ってる」というより、造形として「ヴォーカルが置かれてる」。
「プログレにおけるヴォーカル」の唯一ありうるあり方、と思った。