Alan White、フルスコアが頭に入ってるタイプのドラマー

とある御ブログ記事で、

「ヴォーカリストこそ、

それぞれのパートの良さを

引き出す能力のある人

音楽に精通している人でなければ

ならないのだと思います」

の一文を拝見して、まず脳裏に浮かんだのは、なぜかドラマーのアラン・ホワイトでした。

以前も貼ったつべですが、Yes 'Parallels' のレコーディング・セッションです。最終的にアルバム "Going For The One" に使われたテイクのように聴こえます。

 

アルバムでのこの曲のミックスは、全体に音響過剰リヴァーブ過剰なうえに、ドラム・パートの音量が小さくて、ドラムのフレーズの細部を聴き取れないし、「既に出来上がってる曲に添えられたドラム」みたいな印象になっています。

(トラック・ダウンのフェイダー上げ合戦の場にホワイトがいなかったのかも知れません。)

 

なので、このつべを見てびっくりしました。

①曲の内容を(自分のパートについてだけでなく)完全に把握咀嚼し、表情としても、リズム解釈としても、各部分・各楽想に相応しいフレーズを作り込んでること。それを完全に血肉化し「嬉々として」演奏してること。

②パワフルさと、(ブルーフォードのそれとは別種の)疾走感で、スクワイアを焚きつけて、曲の「勢い」づくりの中心にいること。

ブルーフォードに較べて単調で力まかせと言われがちだけど、けっこうポリリズミックなフレーズを挟んで来て、それが、とくに終盤、疾走感に油を注いでる。

 

「フルスコアが頭に入ってるタイプのドラマー」というのはいますが、ホワイトもそれだったのだなあと、改めて。

もちろん、その「対応力」あればこそ、信頼置かれて長くイエスのドラマーの座にいたわけですが。

 

昔、ホワイトに対する私の印象が悪くなってしまったのは、'Siberian Khatru' の "Yessongs" ヴァージョン、

Outboard, river

Blue tail, tail fly

Luther, in time...

の箇所のせいでした。

つまり「ブルーフォードとの比較で」なわけですが、"Close To The Edge" ヴァージョンのこの箇所でのブルーフォードは、周知のとおり、いったんピアニシモに落として、スネアロールのクレシェンドだけでグーーーっとクライマックスに持ってゆく。あの緊迫感が、この曲の聴きどころのひとつなわけです*1

そのニュアンスを、ホワイトはワン・パターンのロック・ドラムで薙ぎ倒す。次のセクションに同じワン・パターンで滑らかになだれ込んでしまう。メリハリもなにもあったものじゃない。

でも思い直すに、あのアレンジ、ホワイトの責任なのか? バンドの総意として、オープニング曲に相応しい「勢い重視」のアレンジとして、ああなってる可能性がある。

(追記 改めて聴き直すとこれもアリだし、ドラムが出る前にまずギターのカッティングでノリが作られて、これに導かれてドラムが乗っかって来るので、やはりバンドとしてのアレンジと理解すべきですね。ホワイトさんすみませんでした。)

 

誰が何といおうと Yes の最高傑作は 'The Gates Of Delirium' ですが、あの「色彩」と「疾走」による「陶酔」は、モラーツとホワイトのいるあのフォーマットでのみ可能だった、と思います。

*1:'Siberian Khatru' は「聴きどころだけで出来た」曲ですが。