#完全に一致ではないのだが何となく似てる

というお題がいちばん難しい。

本当に似てると「完全に一致じゃん」と言われるし、といってたんに似方が程々なだけでは笑えない。何かポイントを捉えないと。

似てる筈、と思い当たって画像を並べてみると実際にはそれほどでもなかった、という例が今まで夥しくあって、このハッシュタグをこれ幸いと放出を目論むも、どの例も面白味のポイントを欠く。

 

私の中では難波弘之さんと榊原るみさんは似ている。

私の環境だと、難波さんの画像は日常、積極的にアクセスしなくとも、それなりの頻度で流れてくる。榊原さんの画像は、もう何年も見ていなかった。そうすると、私の中で榊原さんの面影が難波さん寄りに修正されて、いざ検索してみると、榊原さんにいちばん似ているのは榊原さんではなく難波さん、なのだった。

 

あと、石井一久さんとアラン・ホールズワースとか。

後藤真希さんとスティーヴ・ハウとか。

大越健介さんと亀田誠治さんとか。

ニール・モーズとシャルル・デュトワとか。

ティーヴ・ハケットとヘルベルト・フォン・カラヤンとか。

 

これの 0'16" 目~が、 

れの 0'56" 目~に似てないか?

'A Horse With No Name' がレジデンツ "The Third Reich'n Roll" で引用されるとか、半獣神の午後の CD 未収録初期曲「交差点」が 'Material Girl' のリフをパクってるとか、プログレの話題に持って行くことも出来るけど。

 

似てると何故笑えるのか。ダジャレにせよ、物真似にせよ。

たぶんたんに似てるだけではダメで、一方が他方への批評になってなくてはならないんだろう。批評の対象は「権威」である。

いっぱんにユーモアとは権威の化けの皮を剥がすことである。

本当の真実と見せかけの真実を見極め、前者に随い後者を斥ける。

宇宙の仕組みは「きまりごと」で、ヒトはそれに随う。

ローカルな権威が、ローカルなくせに、自分の都合のために持ち出す普遍・真理は「きめごと」で、これを打倒する欲求はヒトの「生理」で、この営みをユーモアと呼ぶ。