ドビュッシーと自然

ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏(ムッシュー・クロッシュ・アンティディレッタント)』ドビュッシー著、平島正郎訳(岩波文庫、1996年)の、本文中と、各章の訳注&巻末に置かれた「訳者覚書」に訳出されてるドビュッシーの言葉から、自然に係る箇所を抜き出す。

 

 

1 クロッシュ氏・アンティディレッタント

 

(クロッシュ氏の台詞)「美の真実な感銘が沈黙以外の結果を生むはずがないのは、よくご存じでしょうに」「日没という、あのうっとりするような日々の魔法を前にして、喝采しようという気をおこされたことが、あなたには一度だってありますか?」「あなたがたは、自分があまりにもとるに足りない者であるように感じて、そこにあなたがたの魂を合体させることがおできにならない。だのにいわゆる芸術作品のまえでは、自分をとりもどし、たっぷりそれについて話すことができるあなたがたの社会の古典的な用語を、持っていらっしゃる」

 

(葉巻の)けむりが青い渦をまいてのぼってゆくのを、彼はものめずらしげにみつめ、そこに奇体な歪み……おそらくは奇抜なシステムを凝視しているかのごとくに見えた……

(クロッシュ氏の台詞)「音楽は、散り散りにある諸力をあつめた一全体です……それでもって思弁的な歌を作るわけです!私は、エジプトの羊飼いの笛がひびかせるいくつかの音符のほうが、好きだな。彼らは風景にその音を合わせ、あなたがたの理論書が知らない和声を聴くんです……音楽家たちは、器用な手で書かれた音楽しかききません。自然の中に書きこまれた音楽を、決して聴かない。しかし日がしずむのを見るほうが、『田園交響曲』をきくよりももっとためになる。ほとんど不可解なあなたがたの芸術が、何になりましょう?それが精巧なことでは金庫の錠前も同然に見えるほどやたら複雑だが、こいつはおやめになったほうがよろしくはございませんかな……音楽しか御存知ないものだから足踏みするばかりで、あなたがたは、野蛮でわけのわからないきまりに従っておいでになる」

 

この章の注(9)に訳出された、1911年2月11日「エクセルシォル」紙所載『聖セバスティアンの殉教』の音楽をめぐる談話の一部:

誰に音楽創造の秘密を知ることが出来るでしょうか?海のざわめき。天と地をへだてる曲線。葉叢をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてがわれわれのうちにさまざまな印象をしずみこませます。そして、突然、こちらの意向とはおよそなんのかかわりもなしに、それらの記憶のひとつがわれわれの外にひろがり、音楽言語で自分を表現する。それは、自身のなかにみずからの和声をやどしています。どんな努力をしてみたところで、それよりもっと適切でもっと心のこもった和声を見つけることはできないでしょう。ただ上のごとくしてのみ、音楽に運命づけられた心は、こよなく美しい発見をします。

 

 

2 ローマ賞とサン = サーンスをめぐる対話

 

秋も深まった田園に、私はおそくまでたたずんでいた。年を経た森の魔術が、私をあらがうべくもなくひきとめた。木々の光栄ある最後を称えて黄金の葉が舞いおち、野に休らいを命じてかぼそく夕の鐘が鳴る。その葉の落下と鐘の音から、何もかもすべて忘れよとすすめる優しく説得力のある声が、きこえてくるのだった。太陽はひとりぼっちで、全景に石版画もどきの姿勢をとろうと考える農夫もなく、しずんでいった。馬も人も日々の仕事ーー特定個人の名前と結びつかず、その美しさが奨励も非難もうながさないという特色をもつ、毎日の仕事を終えて、平和に家路をたどってゆく……偉い人の名がおりおり〈悪口〉の外見をおびる芸術上の議論は、遠くにあった。〈初演〉の人工的でいまいましいけちな熱狂は、忘れられていた。私は一人で、心たのしく無私無欲だった。音楽について話すのをきかないこのときほどに、おそらく、私が音楽を愛したことはなかった。音楽はもはや、過度に熱をふきこまれしかもせせこましくされた交響的ないし歌唱的な小断片としてではなく、総体の美しさをもって私の前にそのすがたをあらわしていた。

 

 

10 野外の音楽

 

広場や遊歩場をかざる音楽が、どうして軍楽隊だけに独占されつづけているのだろう?(略)もっと型破りで、もっとしっくり自然という背景にとけこんだお祭りを空想するほうが、私の性分にあっているようだ。

 

人間の声(合唱団ではなくて!……ありがとう)をあわせていちだんと大規模にした多人数のオーケストラを、おもいえがくことができる。そのおかげで、〈野外〉のために特別につくられる音楽ーーすべてが雄大な線でえがかれ、光と自由な大気につつまれた樹々の梢の上をたわむれ舞う声と楽器の大胆な飛翔による、野外用音楽の可能性もでてくる。黴くさい演奏会場にとじこめられたら異常にきこえるような和声の連続が、野外ではきっと正当な評価をうけることだろう。音楽をぎこちなく窮屈にしている形式上のこせついた偏執や恣意的に定められた調性から、自由になる方法も、たぶんみつけられるのではないか。

〈ぼってり大きく〉ではなく〈偉大〉につくるのが大切だということを、理解する必要がある。くりかえして過度にひびかせ、谺をうんざりさせることではなく、大衆のこころのなかの調和にむかうあこがれを伸ばすよう音楽を生かすことが、かんじんだ。大気のゆらめき、樹々の葉のそよぎ、そして花のかおりの神秘な協調が、実現されるにちがいない。音楽は、これらのすべての要素を、そのおのおのの性質を帯びていると思えるくらい全く自然な融和のなかで、結びあわせることができるからだ……。しかもおだやかな善き樹々たちは、まちがいなく宇宙のオルガンの管の役をはたしてくれるだろうし、その枝のささえを、むらがる子供たちに貸してくれることだろう。

 

この章の注(8)に、「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌1901年6月1日号初出時、「たぶんみつけられるのではないか」と「〈ぼってり大きく〉」の間にあった言葉が訳出されてる:

音楽は一新され、そこで樹々の繁茂がひめた自由の美しい教えを、学びとることができるにちがいない。細やかすぎる魅惑のなかで見失ったものを、音楽は、壮大さのなかでとりもどすのではないだろうか?

 

巻末「訳者覚書」から:

音楽は、自由な、湧出する芸術、野外の芸術、照応する自然しだいで風の、空の、海の芸術です!(1911年1月18日「エクセルシオール」誌のドビュッシー談より)

 

 

11 喚起

 

ヴェーバーについての叙述)この男は、自然の無限のたましいと登場人物とのあいだに介在するにちがいないかかわりあいに、おそらくはじめてこころを悩ました音楽家であった。もっと確かなのは、伝説を利用しようと考えたとき、そこで音楽は自然のはたらきを発見するだろうという予感を、彼がいだいていたことである。実際、夜の神秘な詩情や、月の光の愛撫をうけた木の葉が何れからともなく立てるあの千々のささやきのなかに、生きている証しをそっとうかがわせる現とも見えぬ風景、疑えはしないが幻影のような世界は、音楽だけが意のままに喚起する力をもっている。

幻想的なものを音楽でえがくあらゆる確かな方法が、この男の脳髄のなかでやすやすと駆使される。ーーこんなに管弦楽の化学がゆたかになったわれわれの時代すら、彼をそれほど凌駕してはいない。

 

 

13 ベートーヴェン

 

『田園交響曲』の人気は、自然と人間とのあいだでかなり一般的になっている誤解から、生じている。小川のほとりの場面をごらんなさい!……牛たちがどうやら水を飲みにやってくるらしい(ファゴットの声部が、そうおもう気をおこさせる)小川。その名にあたいする自然よりもド・ヴォカンソン氏の技術に属する、木製の夜うぐいすやスイス製かっこうは、言うまでもない……。万事が骨折り損のそら真似か、もっぱら気ままな注釈だ。

老巨匠の何頁かが、風景の美のもっと深みのある表現をどんなに含んでいることか。それはひたすら、自然のなかにある〈目に見えないもの〉の感情的なおき換えがあるからで、直接の模写があるからでは、もはやない。森の神秘が、樹々の高さを測ることによって、あらわされるだろうか?それどころか想像力を発動させるのは、むしろ森の測れない深さではないか。

一方で、この交響曲ベートーヴェンは、書物を通じてしか自然を見ない一時期についての、責任がある……これは、まさしくこの交響曲の一部分である「嵐」のなかに、はっきりした証拠がある。そこでは、生きものや事物のいだく恐怖が、あまり本気らしくない雷の鳴りひびくあいだ、ロマンティックな外套のひだにくるまる。

 

 

武満から学んだ自然と音楽の関係の認識がそのままドビュッシーに既にある、と思ったし、葉巻のけむりの件なんかクセナキスに通じると思った。