プログラムされた気紛れ

最近セミが少なくなった、という感じを持ってるし、事実そうなんだろう。

 

ただ、経年変化=「時間」で見てということ以上に、私のいるのが住宅地の真ん中で、私自身がこのポイントからほぼ動かなくなったから、という「空間」の事情がある。

 

セミの時期が来て声を聞くようになる、のではなく、セミが、本来の行動範囲ではないこのエリア、私の聴力の及ぶ範囲まで飛んできてくれて、それが私にとっての「今年初めてのセミ」となる。

 

硝子戸の中

 

昨日はツクツクボウシを初めて聴いた。間遠く、ワンコーラスだけ鳴いて、他所に移動したようだった。

セミのライフサイクルがここで完結することはない。

セミが卵を産みつける樹も、幼虫が潜り込む地面も少ない。

成虫にとっても、出会いの少ないこのエリアに飛んで来るのは不利である。でも成虫は「有利だから」そこに飛んでくるばかりではない。

 

[どうして不倫すると思う?] 成人、成獣、成虫は、遺伝子を出来るだけ広範囲に運搬するようにプログラムされ、機能・形状を設計されたものだから。つまりそれが自然だから。倫理とは別の問題として。

過去記事より。

 

いのちは、生きやすい場所を得ればそこで繁栄する。反面、過酷な環境に敢えて進出しもする。ぎりぎりの条件でも命を繋ぐ可能性がある所には「必ず」進出するのがいのちである。

このパイオニアとしての役割を、セミの場合、成虫が担っている。

 

追記 2024年04月18日

これを書いた時、「移動の自由を奪うことがなぜ刑罰たり得るのか」についても論じたかったけどいったん断念した。その後書いてみた: